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6.文久3年9月14日 藤四郎祢宜、帰鹿

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記事ID:0069352 更新日:2023年3月22日更新

『惣大行事日記』より)

 文久3年9月14日、鹿島丹下帰職願いの結果が出ないまま藤四郎祢宜が江戸より鹿島に帰ってきます。藤四郎はその理由を、
(1)月3両の入用金が1日5匁(月約2両2分)に減らされ納得いかない。
(2)丹下の帰職伺いのみならず、千代吉・伝蔵の件、その他変死事件の届出など仕事が多い。
(3)老齢になり時々体調がすぐれず、田野辺(大祝)あたりに交代を希望したい。
 と伝えます。「殊の外立腹」して話したという当日の日記を読んでみましょう。​

原文

文久3年9月14日 藤四郎祢宜、帰鹿 [PDFファイル/132KB]

 ※縦書きをPDFで公開しています。

読み下し文

 文久三亥年九月十四日 雨、晴
今タ藤四郎祢宜江戸より罷り下り、新町飛脚吾助方へ立ち寄りこれ有る由、能右衛門申し来たり候間、同人を以て藤四郎方へ申し遣わし候て、一寸(ちょっと)立ち寄り呉れ候。段々六月中よりの儀承り候ところ、その度々書面申し越し候通り相違もこれ無く、扨(さて)この節は牧野様先達て中御病気にてこれ有る由、役人中申し聞かされ、その間伺いも申し上げず、その後当月七日に伺い出で候ところ、御留守の由に付き、何方(いずかた)へ御出でかと存じ風聞承り候ところ、御用向きにて日光へ御出張に相成り候由。これに依り藤四郎心得に、御留守中とても御沙汰これ有るまじく候えば、一先(ひとまず)帰村願い申すべくと存じ、帰村願い申し上げ候ところ、御係り役人出逢い申さず、森七郎と申す人出られ、願書被見。これは帰村願いの儀はちと無理にこれ有るべく候。しかし係り役人へも申し聞くべき由にて引き取り申し付けられ、その後伺いに出で、御係り松本八郎殿に面会。帰村の儀伺い候ところ、長くは帰村申し付け難き由御申すに付き、左候はば当二十五日まで御暇(おいとま)頂載仕りたき由申し候ところ、その通り御聞き済みにて罷り下り、道中木颪(きおろし)近辺まで参り候ところ、飛脚吾助に逢い、この方より変死検視済みの届け書頼み遣わし候に付き拠ん所無く、それより引き返し出府。右の届け相済まし、帰村致し候由なり。入用金の儀先の通り両所より書面添え、差し登らせ候ところ、六月中出府の節は、月三両の積りにて入用受け取り候ところ、この度は日に五匁宛(ずつ)に差し登らさせ候由の書面、甚だその意を得ず。六月中より千代吉・伝蔵の伺い並びに炮術稽古の伺い、その後七月中より変死届けの儀も、最初差し上げ候書面引き替え相願い旁、一方ならず骨折りをかけ置き、眼前不足の入用金を減じ候始末、年番の心得と申せ、甚だ如何の致し方、それ故とても在府には相成らざる心得、なお又老年に及び、時々不快がちにて難儀に候間、この度の出府は田野辺か両職にて出で申すべき旨相談に及び候積りの由、殊の外立腹にて咄し申され候。下りがけ取り急ぎ候由に付き、盃立て候までにて早速帰られ候。​

現代語訳

 文久3年9月14日 雨 晴
 今タ、藤四郎祢宜が江戸より下ってきて、新町の飛脚吾助方へ立ち寄ったと(松信)能右衛門が言ってきたので、能右衛門を藤四郎方へ遣わして、少し立ち寄ってもらった。あれやこれやと6月中よりの帰職伺いの件を訪ねたところ、度々書面で言っていた通りで間違いなく、さてこの節は牧野様が先日からご病気でいらっしゃるというのを役人から聞いたので、その間はお伺い申し上げず、その後、当月7日にお伺いに参上したところ、お留守ということで、どちらへお出かけかとの噂を聞いたら、ご用があって日光へご出張されているとのこと。これにより藤四郎は察して、お留守中はとても御沙汰があると思えないので、ひとまず鹿島へ帰村願いを出そうと、帰村願いを申し上げたところ、御係り役人に出会えず、森七郎という人が出てきて、願書を見られた。これは帰村願いの件はちょっと無理だろうと思った。しかし「係の役人へも聞くこと」と引き取るように申し付けられ、その後伺いに出で、御係の松本八郎殿に面会。帰村の件をお伺いしたところ、長くの帰村の許可は難しいと言うので、それならば、当月25日までお暇を頂きたいと申し出たところ、その通り聞き届けられたので江戸から下り、道中木颪(きおろし)*1近辺までやって来たところ、飛脚吾助に会い、私(鹿島丹下)より変死検視済みの届け書*2が遣わされていると聞いて、どうしようもなくそれから引き返して出府。この届けを済ませて帰村しました、とのことだった。出府費用の件、先日申し上げた通り、両所から書面を添えて送られてきて、6月中に出府の際は、月3両のつもりで費用を受け取っていたのに、この度は日に5匁*3ということで書面が来ており、とても納得できない。6月中から千代吉・伝蔵の伺い並びに炮術稽古の伺い、その後7月中より変死届けの件も、最初に提出した書面の引き替えを願うかたわら、ひとかたならず骨を折らせておきながら、眼前の不足の費用を減らすという始末は、年番の仕事とは言え、どういう仕打ちなのか、それゆえとても在府できないと思った。なおまた、私は老年になって時々体調が悪くなりがちで困っているので、今回の出府は同じく年番である田野辺(大祝)あたりにお願いしたい旨を相談するつもりですと、思いの外たいそう立腹して話していた。退出する際に急ぎのとのことで、盃を上げただけで、すぐに帰って行った。

​注釈

*1 木颪…木下(きおろし)は現在の千葉県印西市。近世には利根川沿いに河岸が置かれ、利根川を下って浪逆浦から大船津へと船が出ていた。松尾芭蕉の「鹿島詣」にも江戸から鹿島への道筋として地名が見られる。

*2 変死検視済みの届け書…文久3年7月に神領内で博徒の喧嘩があり、水戸・船橋の者と大船津老人の計3人が死亡した。9月2日に水戸から検死役が到着し、両所役人が立ち会うも「大変不手際」ありと当日の日記に記されている。この変死の検死済み届が、9月7日に藤四郎祢宜宛に出されていた。​

*3 日に五匁宛…1日あたり5匁。1ヵ月にすると150匁。ところが6月出府の際は月3両=約180匁の支給だった。減額ではないか、という藤四郎の不満の声。

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