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「大船津」地名の由来と歴史

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記事ID:0076508 更新日:2024年7月24日更新

大船津(おおふなつ)の地名の由来

 「大船津」の「津」は港を意味し、水上交通に必要な施設が整備されている船着場であるところから、この名がつけられました。700年前は「川島」と呼ばれ、その後「船戸(ふなど)」・「大船戸(おおふなど)」・「大船津」と改められ、鹿島神宮の船着き場として、水郷交通の中継地としての機能を果たしながら、発展を続けてきました。

大船津の歴史

 ​大船津は、御手洗川(鹿島神宮の御手洗と厨谷津の清水を集めて、下生を経て大船津に流下している)による三角州を基盤に、埋立によって造成された湖岸塊状集落です。
 古代の船着場は、下生の「甕島」(「甕山」)と呼ばれ、藤原鎌足の出生地と伝わる鎌足神社の周辺です。鎌足神社は藤原鎌足の出生地と伝えられており、甕山には「藤原」という地名が残ります。標高8m以上で、付近の島々は早くから船着場となっていました。
 甕島が使用されたのは奈良時代までで、それ以降は、徐々に水面が後退し、御手洗川の造成する三角州が発達し、古家・小船津が船着場となります。「古家」は居住地帯で、「船津」が船着場・船溜りでした。
 次いで鎌倉時代になると、津がさらに前進しました。船着場の前進は、居住地区と距離が遠くなるため、居住地を前進させるためにとられたのが、埋立による居住地の前進です。僧忍性が埋め立て工事によって「前小路」や「河岸通」を集落地にしたと伝わります。続いて第二期工事では、「田町」から下生への連絡路が開通しました。難工事を救うため、第一期工事では鶏を人柱の代わりにし、第二期工事では、法華経を埋めて完成したと伝承されています。埋立工事によって、今の大船津の基礎が確立されました。

鹿島の船付場 大船津の図

 大船津には、97の小字があり、主な地名の由来をたどると、地理的地名に「上モリ」・「下モリ」の「モリ」は、四ツ谷にある「森の稲荷神社」を中心として、上と下をつけて呼んだところから、この名前が生まれました。御手洗川は、大船津に入って「流れ川」と呼ばれていて、「川迎」は、流れ川の川むかいであるから、「迎」の字が当てられました。川迎の突端は「スボ居」で、「ス」は洲で、土や砂が盛り上がって陸地になりつつあるところから地名となりました。
 「大掾辺田(ダイジョウベタ)」は、大掾という官位を持った平氏の役所があった端のあたり、という意味で名付けられました。

 「新田」は、大船津新田とも、単に新田とも云われていますが、もともとは神野新田とも云われる小字です。新田を取り巻く小字は、46字ありますが、鹿島神宮と物忌(斎)の地名が多いです。主なものを挙げると、「イツキ」は物忌の御料田と考えられ、「ミテクラ」は跡宮への御幣帛(みてくら:神に奉納するものの総称)料田、「シメカケ」は、物忌がシメカケ江間より、船にて御発與になるための注連縄を張ったことによるものと考えられています。
 「新田」は物忌300石(神野)に関する農村集落で、その中心をなし、住居・神社・寺院・墓地もある字「新田居下(イジタ)」は、新田の人々の墾田によるものです。

大船津の地図

生産と流通

農業

 旧豊津村地域(大船津・爪木)の水田は、鰐川及び北浦の沿岸に発達しており、土質は、砂礫壌土が多く、排水良好で、米作りが中心でした。
 一方、住宅周辺の畑地は、平坦にして点在しており、地味は肥沃で、各種の農作物の栽培に適していました。
 旧豊津村は、耕地(水田)が河川の沿岸にあるため、台風や防風雨の時は、利根川始め流域河川の出水に伴い、鰐川・北浦が氾濫し、田畑の冠水によって、農作物への被害は極めて甚大となり、洪水の度に、収穫皆無という地域もありました。『鹿嶋市史 地誌編』によると昭和16年(1941)7月には、「暴風雨により交通が断絶し、神宮橋付近一帯が増水し泥の海となった」という記録が残っています。

漁業

 北浦、外浪逆浦は淡水魚の宝庫として、江戸時代より戦前・戦後に至るまで、旧来の漁法による操業が受け継がれていました。特に北浦で行われていた大徳網法*1は、大正末期から昭和の初めにかけて最盛期でしたが、昭和40年代後半頃までに衰退してしまいました。

■注

*1 大徳網漁は、地曳と船曳の2種があり、全ての漁獲に使われていました。約200年ほど前に始まったとされます。片袖180m以上の大徳網を使い、海の地曳網漁のように砂浜のある所では浜に引き上げ、ないところでは船に引き上げます。一隻の従業員(曳子)に12名~15名を必要とする大規模な漁法です。

飲料水問題

 水に恵まれ、水運などで繁栄してきた大船津ですが、洪水と飲料水では、長い間苦労してきました。特に生活に不可欠の飲料水には、地域の人々の苦労が偲ばれます。
 大船津は、三角州の埋め立て地に居を構えているため、井戸を掘っても飲料水はおろか、洗濯用水にも不適でした。そこで考案されたのが、御手洗川の利用です。個人で、または共同で水汲み場(だし)を特設して、夏は早朝3時頃より、冬は5時頃より水汲みをして、飲料水は「水漉し器」でろ過して大がめに入れて置きました。洗い水等の雑用水は、その折に汲んで使用しました。
 したがって、各家庭には、水がめ、水漉し器、水汲み桶、ひしゃく等が常備されていました。「だし」は、川端に階段を作り、水汲み場とした簡単な施設でした。川に対しては、「ゴミを入れない・川に入らない」等が守られており、清掃作業も定期的に実施されていたので、川は常に清潔でした。しかし、暴風雨、台風などによる洪水の際には、下水が川に入り混じってしまい、飲料水の確保に迫られました。昭和16年(1941)の台風の際は、鹿島町下生地区の井戸から水を汲み上げ、鹿島小学校児童のバケツリレーによって、途中まで運搬し、それからは農舟に積み込んで各所に配達しました。
 この飲料水問題の打開策として、水道施設の計画に取り組み、昭和31年(1956)に簡易水道が完成しました。昭和32年(1957)10月より「だし」の利用は洗濯場に変わり、更に不要なものとなりました。

大船津新田の河岸

 大船津新田には、湖岸800メートルに対して、27条の営農用の河岸「江間(えんま)」がありました。江間には、2様式があり、大船津から爪木にかけてあるように、湖岸から直接堀込んである江間と、大船津と新田の間にあるような、大小の出入り口があって、内に入ってから、各江間間を連結する横の連絡路があります。

 「えんま」は、個人用の船着場と公共用の船着場、つまり集落の共有船着場です。共有船着場を「郷江間(ごうえんま)」といい、営業目的に拡大した江間を「河岸」といいます。郷江間は、集落共同体の「河岸」機能も果たし、その共同管理下に置かれました。新田には、下手の江間が8条で一群となっています。上手の江間は19条で、堤防のために「横江間(よこえんま)」で、全部が連なっていて、約3分の1の所に、水門が2基設けられて北浦へ連絡していました。
 江間は、各戸に造設されており、農舟が必ず1隻はありました。江間と農舟は営農上不可欠の運搬施設でしたが、土地改良事業推進の中で、埋め立てられて水田となり、農舟から自動車に変わり、水上交通を中心とした時代から、陸上交通を主とした時代に変わりました。大船津・爪木のえんまの図

大船津の河岸

 大船津の河岸は、御手洗川を境に二分されて、南側は個人経営の河岸や人々の出入口となっていました。北側は荷物が主で、公共的性格が強く、近世領主の年貢米等は、公共河岸である「郷江間」から積み出していました。鹿島神宮への奉納灯籠で、江戸の石工の作ったものは、「郷江間」から荷揚げして運搬されました。
 大船津の河岸、桟橋が多く、堀込み式の河岸は御手洗川支流と字「小船津」の河岸跡だけです。大船津の河岸が栄えたのは、江戸の終わり近くで、慶応3年(1867)には、河岸問屋が4軒あり、明治に入って10軒となり、鹿島の港として栄えました。来客や船員たちのための旅館や飯屋があり、船積みや船揚げのための作業員が集まり、積み荷を扱う回船問屋や売り場問屋、陸揚げした荷を、近隣の町や村へ運搬する積み荷問屋などの蔵や店が建ち並び、賑わいを見せていました。明治から昭和初期にかけては、北浦・霞ヶ浦を航行する蒸気船の寄港地となり、人々の往来も多く、貨物の集散地でもありました。
 参考:明治時代の水運交通と産業
 しかし、交通体系が河川から鉄道・自動車へと大きく転換していくにつれ、北浦の水運は、大正中頃から少しずつ衰微していきました。海・水上輸送から、陸上輸送に切り替わってくると、北浦への架橋が必要になってきました。「神宮橋」は昭和3年(1928)9月に起工し、翌4年(1929)11月に竣工開通しました。全長887メートル、巾5.5メートルで、当時の近代科学の粋を集めた鉄筋コンクリート橋が完成しました。現在の神宮橋は昭和36年(1961)に架け替えられた2代目です。平成14年(2002)には、カシマサッカースタジアムでのワールドカップ開催に合わせて新神宮橋が開通しました。

教育と文化

学校教育

 豊津小学校は、明治11年(1878)9月5日に大船津2358番地に開校し、大船津小学校と称しました。明治42年(1909)に現在地の2328番に移りました。
 塾の教育も盛んで、爪木の松岡塾へ農閑期に子ども達が自分の机を持参して勉強しました。また、大正から昭和の初期まで、鹿島の神野吾妻塾などに通いました。
 昭和22年(1947)度より、六三制の学校制度が実施され、豊津中学校が誕生しましたが、豊津村に於いては他町村に比して、土地面積も狭小であるため、最初より独立した校地や校舎を確保することは難しく、豊津小学校内に開設して以来、僅か1年余りで鹿島中学校と合併し、鹿島町豊津村組合立鹿島中学校となりました。
 昭和55年(1980)4月に鹿島町立鹿野中学校が現在の位置(鹿嶋市城山)に開校し、鹿島小・豊津小学区の生徒たちが通うようになりました。

和裁所

 大船津の飯島家・糟谷家・高崎家が和裁所を開設していました。人数は各10人前後でした。また、鹿島の和裁所に通う人もいました。

文化財と名所・史跡

鶏壁山普渡寺

 真言宗智山派。宮中護国院の末寺。潮来市延方、普門院の地蔵尊由来縁起によると、この地方を創建(開発)したと云われる鎌倉時代の僧忍性(にんしょう)は、鹿島神宮の神託を受け、神木の南枝を切り取り、仏3体を掘って、海上交通安全を祈願しました。その時に、1体を対岸の普渡寺に、もう1体を宮中の普済寺に安置した、と伝わります。
 普渡寺は、寺名の「フット」という言葉に想起される通り、渡し場、港、津という意味に通じ、渡し場の寺、港の寺として、広く庶民の間に信仰されました。忍性と関係を持つ「船越地蔵」は、現在のところ発見されていません。
 普渡寺に伝わる鎌倉時代後半(13世紀後半)作の「十一面観音立像」は、平成22年(2010)に鹿嶋市指定有形文化財に指定されています。

鹿島神宮西の一の鳥居

 大船津旧河岸には、鹿島神宮西の一の鳥居が建立されています。下記の絵図は北条時鄰が『鹿島誌』の中に描いた江戸時代の大船津の様子です。江戸時代には鹿島神宮に参詣する「鹿島詣」の玄関口として賑わいました。

鹿島誌に描かれた大船津

参考:鹿島信仰と鹿島への旅

 現在の西の一の鳥居は、平成25年(2013)に再建されたものです。

大船津の神田神楽

 大船津新田地区に伝わる新田神楽は、昭和52年(1977)11月21日に鹿島町(現在の鹿嶋市)指定文化財に指定されています。
​ 新田神楽は、1月下旬の村祈祷の際に地区の各戸を回って家内安全・五穀豊穣を祈願してまわるほか、12年に一度行われる鹿島神宮の大祭「御船祭」に、一番先頭に立ち、悪魔祓いをして御座船を守り導く役割を担っていました。近年継承者が少なくなり、途絶えてしまいました。

 参考:新田神楽 (平成14年に収録された動画も見ることができます)

浄瑠璃橋

 大船津の中央の流れに架けられている石橋を「浄瑠璃橋」といいます。江戸時代末の慶応2年(1866)頃、当時の領主より領民一同へ賜金せられたことがありました。当時の名主がこれを領民に配布しても、各人が活用する程の額ではなかったので、人馬通行の利便を計るため、土橋を石橋に架け替えました。領主が江戸の浄瑠璃坂に住んでいたので、永くその恩を忘れないために浄瑠璃橋と名付けたといいます。

天狗党の墓

 元治元年(1864)、攘夷を掲げて筑波山で挙兵した天狗党の一部は、幕府軍に追われ同年9月に鹿島に落ち延びます。大船津の港から行方へ向かおうとした天狗党に向けて幕府軍は砲撃を行い、大船津の町は戦火に見舞われたといいます。
 参考:天狗の鹿嶋落ち

 捕らえられた23名は宮中下生の石橋外で打ち首となり、大掾辺田の馬捨場へ埋められました。明治11年(1878)頃に有志により大掾辺田に「殉難諸士乃墓」という石碑が建立されました。「天狗党の墓」は、昭和55年に市指定史跡になっています。

鹿嶋市郷土かるた「え」の札

 (鹿嶋市郷土かるたより

参考文献

  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第二巻』昭和49年12月20日 
  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 
  • 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史 第四巻』昭和59年3月31日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
  • 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
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