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明治時代の水運交通と産業

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記事ID:0050090 更新日:2021年3月29日更新

太平洋と霞ヶ浦・北浦に挟まれた南北に長い鹿島地方は古来より水との関わりが深く、江戸時代から明治時代にかけても湖や河川が交通路として頻繁に利用され、河岸(かし)・渡船場は隆盛を極めました。

最大の渡船場 大船津(おおふなつ)

明治8年(1875年)になると多くの河岸問屋が整理統合されるようになり、水陸運送会社に加盟し出資金100円を納めた者のみが営業を許されました。明治9年には、鹿島地方では下塙村(鹿嶋市)谷原村(鹿嶋市)居切村(神栖市)深芝村(神栖市)がそれぞれ2株、爪木村(鹿嶋市)が1株、爪木村から1株を譲り受けた大船津村(鹿嶋市)は10株を所有していました。

10株を所有する大船津では10軒の河岸問屋が操業し、鹿行地域で一番繁栄していました。大船津の渡船場は、延方(潮来市)の洲崎河岸との往来が主でしたが、鹿島への旅行客が利用する不定期の客船も佐原方面や木下方面から多く往来していました。渡船場には渡船用の桟橋があって待合所が設けられており、客人の人数がたまると舟を出しました。

道順

水運交通

明治10年以降になると利根川航路に「第一通運丸」「銚子丸」などの蒸気船が就航するようになります。運賃は明治24年の東京―大船津間で61銭だったようです。明治30年には利根川を行き来する舟は、和船が35,578艘・汽船が1,325艘・筏(いかだ)1,650艘で一日平均160艘にも及びました。

しかし昭和初期になると、潮来と鹿嶋を結ぶ初代神宮橋が開通するなどして船運は陸運に押され、蒸気船や渡船場は次第に姿を消していきました。

鹿島の産業

明治時代の鹿嶋の主産業は農業であり、海岸と湖岸では半農半漁で生計を立てていました。米や乾魚、大麦や干鰯が生産されていました。明治20年代になると化学肥料の生産が伸びた影響で、それまで肥料として生産していた干鰯(ほしか)の価格が下落し、地引網漁が衰退していきました。

明治35年にはスイカの栽培が始まり、落花生・さつまいもも徐々に作られるようになりました。農閑期には副業として、筵(むしろ)や叺(かます)などのなどの藁製品作る家が多かったようです。
むしろ
kamasu

参考文献

『図説鹿嶋の歴史 近代・現代編』
『鹿島を中心とした交通と運輸 上』

避難所混雑状況