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5.文久3年7月~8月 飛脚吾助と御師作太夫の報告

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記事ID:0069345 更新日:2023年1月26日更新

『惣大行事日記』より)

 鹿島丹下の復職願いのために江戸へ出府した藤四郎祢宜は、日本橋松島町(現人形町2丁目辺り)を拠点に、寺社奉行所へ出向くことになります。その様子を遠く鹿島の地の丹下まで伝えたのは、飛脚の吾助と鹿島神宮の御師(おし)作太夫親子です。
  飛脚の吾助は毎月数度鹿島と江戸を往復しており、帰鹿毎に丹下に藤四郎の様子を報告していました。丹下も吾助に手紙を託して藤四郎と連絡を取ります。
 御師は鹿島神宮の参拝客の仲介役で、旅行代理業の役割を果たしていました。当時の鹿島には二十軒以上の御師の家があり、作太夫もその一人です。江戸と鹿島を行き来していた作太夫とその息子匠作も丹下に藤四郎の様子を伝えます。
 現代とは違い、遠隔地と直接連絡を取る手段がない時代、仲介役の彼らの存在の大きさが際立ちます。
 彼らの報告から6月~8月の経過をまとめますと、藤四郎は寺社奉行所の担当官が牧野備前守から松前伊豆守に替わったというので、6月に松前伊豆守へ伺い書を出します。しかし調査は進まず、7月に再度寺社奉行へ参上したところ、牧野備前守の転役はなく、改めて備前守へ伺い書を出すことになります。たらい回しにされた藤四郎の在府はお盆(旧暦7月15日)をまたいで長期化します。7月の後半、藤四郎は体調を崩して参上できず。月末にようやく参上してもまだ沙汰はなく、8月半ばを過ぎても吉報は届きません。
 丹下は体調不良の藤四郎を気遣う手紙を送り、鹿島に残る家族にも柿15個を送って労っています。​

読み下し文

 (七月)二日 晴 残暑強
 (中略)
朝五助来たる。三、四日以前罷り下り候得共、この度は松島町へ寄り申さず候故藤四郎様子存ぜず候由。尤もこの節還御御祝儀につき、御赦(ゆるし)などの儀もこれあり。その外公事御捌(さば)きも果ヶ取(はかどり)候由承り候由咄(はな)し、右の外いろいろ風説など咄し申し候。今日昼立ちにて又々出府の由なり。
一、昼すぎ作太夫忰(せがれ)匠作来たる。昨日江戸より帰り候由。松島町にて藤四郎に面会のところ、二十六日に奉行所へ出られ候ところ、牧野様御転役にて後御掛り、松前伊豆守様御引き渡しに相成り候につき、御同所へ罷り出で御届け相済まし、何れ取り調べ沙汰に及ぶべき旨、公用人申され引き取りの由。右の段藤四郎より伝言なり。尤も外に変わる儀もこれなく候間、書面も下し申さず、いずれ近日飛脚便りに書面差し上ぐべき旨申し越し候。還御の儀御発しに相成り、大いに穏やかに相成り候由、匠作の咄なり。
一、五助昼立ちの由に付き、在府藤四郎祢宜へ書面頼み遣わす。作太夫より承知の趣、御役替えにて差し支え候段、並びに相成るべくは此の上盆中も在府にて願い貰い度く、入用などの儀は書面下され候はば、何れ共相談に相成るべきかと存じ候趣申し遣わす。

  ​十五日 晴 残暑強、南風
(中略)
一、暮方飛脚五助来たる。八日に松島町へ参り藤四郎祢宜方へこの方書面届け、尤も大宮司年番中よりも何か、願書様のもの書面(千代吉その他伺い書ならん)添え差し登らせ右も届け候由。然るところ藤四郎申し候には、その後伺いにも罷り出で候得ども、御取り込みにて相分からず、尤も盆前帰村にも相成る問敷く候。外に変わる事もこれなく、書面も上げ候迄にこれなく候間いずれ盆中か、盆後に作太夫罷り下り候間、その節委細書面上げ申すべく候間、右の段堀之内へ宜しく伝えくれ候様、頼まれ候と申す事也。いろいろ様子承り候ところ五助もその後相尋ねず、十一日に江戸出立故、委(くわ)しき様子も存ぜざる旨なり。

​(中略)

  十九日 晴 残暑強
二百十日
一、四ッ時作太夫来たる。昨夜江戸より帰り候由、藤四郎袮宜より書状持参。書面の趣は、先月二十三日江戸着。二十五日に牧野様へ伺い書差し上げ候ところ、御役人平井仙左衛門殿申され候は、有島殿へ相願い候儀は、御跡(後)役松前伊豆守殿へ御引き渡しに相成り候間、御同所様へ相伺い候様申し聞かされ候間、当春中御当方様にて御調べも御座候儀故、何卒御取り扱い下され度き旨申し上げ候ところ、有馬殿御掛かりの分は松前様へ出で申さず候ては、相分からざる旨申し聞かされ、よん所なく松前様へ出で伺い候ところ、未だ普請中にて取り調べ致さず候間、取り調べ次第沙汰致すべき趣にて引き取り申し付けられ、その後も伺い候えども同様申し聞かされ相分かり申さず。これにより当十三日又々伺い出で候ところ、御役人申され候は、当春中牧野様にて御調べもこれあり候儀故、御頼みに相成り候間御同所様へ相伺い申すべき旨申し聞かされ、然るところ盆中の事故伺い差し控え居り候。いずれ十七日には牧野様へ罷り出で歎願仕るべく候。春中御調べも相済み居り候こと故御安心の儀と存じ候。先日より否や申し上ぐべきところ、右の次第相分かり申さず候間、よん所なく口上のみに申し上げ置き候。この段御免下さるべく候。猶追々、吉左右申し上ぐべく候旨相認めこれあり候。十四日出し候日付なり。
作太夫に猶又様子承り候ところ、牧野様御転役にてはこれなく、松前様御新役にて、有馬様御跡(後)役と申す様なる事にて、最初有馬様御掛かりの分はこの度松前様へ御引き渡しと申す事の由咄(はなし)なり。両所年番中へ別に書面参り候や相尋ね候ところ、参り候由なり。是より桜山へ持参致し候趣作太夫申し候。

(中略)

​ (八月)十四日 曇り
一、飛脚五助昨夜帰り候由にて、在府猿田由膳よりの書面持参。書面の趣は先月十七日に牧野様へ伺い出で候ところ、取り調べ追って沙汰に及ぶべき旨にて引き取り、其の後二十三日頃より腹痛にて甚だ相わずらい薬用いたし、漸くニ十九日頃快方に付き、伺い書相認め晦日に又々伺い候ところ、この方より沙汰に及ぶべき旨に御座候。御調べの筋は一切これ無く御上へ伺いの上御申し渡し相成り候様子故、最早程なく相済み申すべし。六日等には御沙汰これあるべくと存じ居り候えども、その儀なく定めて十八日には吉左右にも相成るべし。この段御安心下さるべく候。入用の儀も病気旁にてこの節甚だ差し支え候間、先日両所へ書面差し下し候ところ、追って金子差し登らせ申すべき趣御返事に御座候。何分宜敷く御相談相願い候。猶又五助方へ御口上に仰せ聞かされ候趣、委細承知仕り候旨、右様の書面なり。書面同様五助口上もこれあり候。書面は七日出すなり。五助は十日に出立と申す事。

(中略)

  二十四日 昨夜より大雨、今日も降り夕方止む。
(中略)
一、今日飛脚五助出府に付き、在府猿田由膳方へ書面遣わす。先日五助帰村の節、書面にて御奉行の様子も先ず宜敷き方の由大慶。しかし先月二十三日より、二十九日頃迄不快の由、さぞさぞ難儀と察し入り候。猶又御苦労ながら宜しく頼み入り候。入用金の儀は両所へも相談申し入れ候に付き、この節差し登らせ候由、承り候旨申し遣わす。​​

現代語訳

 (7月)2日 晴 残暑強
 (中略)
 朝、五助(吾助)*1が来た。3、4日前に鹿島に帰ってきたが、この度は松島町*2へ寄らなかったので、藤四郎の様子はわからないとのことだった。もっとも、この節は将軍様の還御*3の御祝儀につき、御赦し(恩赦の)件もあった。その他、訴訟もはかどられているとお聞きした、との話など、いろいろ噂などを話していた。今日昼の出発でまた出府するということだ。
一、昼すぎに作太夫*4の息子の匠作が来た。昨日江戸より帰って来たとのこと。松島町にて藤四郎に面会したところ、「26日に奉行所へ出所したところ、牧野様*5がご転役になったので、後任の松前伊豆守様*6へお引き渡しになり、奉行所へ参上してお届けを済ませ、いずれ取り調べと御沙汰に及ぶはずである旨を公用人が言ったので退出した」とのこと。この件、藤四郎よりの伝言である。ただ、「他に変わったこともないので、書面にはしておらず、近いうちに飛脚を通して書面を差し出すつもりです」と言ってよこした。還御の件が発表となり、大変穏やかになっていると、匠作の話である。
一、吾助が昼に出立するというので、在府の藤四郎祢宜へ書面を頼んで遣わした。「作太夫からの伝言の件、承知しました。お役替えにより不都合が生じている件、そしてこうなった以上は盆(旧暦7月15日)中も在府をお願いしたく、入用などあれば、書面を頂ければ、いずれ相談になるかと思います」という旨を申し遣わした。

(中略)

 15日 晴 残暑強、南風
(中略)
一、夕暮れ時に飛脚吾助が来た。8日に松島町へ参上し、藤四郎祢宜方へ私の書面を届け、ただし大宮司と年番役人からも何か願書のような書面(千代吉その他伺書であろう)を添えて、一緒に届けたということだ。しかし、藤四郎が言うには、「その後伺いに参上したものの、お取込み中で分からず、当然盆前に帰村できそうにもないです。他に変わったこともなく、書面にするまでもないので、いずれ盆中か、盆後に作太夫が帰るときに、その節の委細を書面にするつもりです、この件堀之内(鹿島丹下)へ宜しく伝えください」、と頼まれましたとのことだった。いろいろ様子を聞いたが、吾助もその後は訪問せず、11日に江戸を出立したので、詳しい様子はわからないとのことだった。

(中略)

 19日 晴 残暑強
 二百十日
 一、四ッ時(午前8時)、作太夫が来た。昨夜江戸より帰ってきたとのことで、藤四郎袮宜より書状を持参した。書面の趣旨は「先月23日江戸着。25日に牧野様へ伺い書を差し上げたところ、御役人の平井仙左衛門殿がおっしゃるには、『有島殿*7へお願いした件は、御後役の松前伊豆守殿へお引き渡しになったので、松前様へお伺いするように』と聞かされましたので、『春のうちに有馬様にてお調べした件もおありでしょうから、何卒お取り扱い下さいますように』と申し上げましたところ、『有馬殿がご担当した分は、松前様へお伺いしないとわからない』旨を申し聞かされ、仕方なく松前様へ参上してお伺いしたところ、『まだ普請役についているので、取り調べをしていない、取り調べ次第、沙汰を致すつもりだ』と引き取るように言われ、その後もお伺いを立てたが同様のことを聞かされ分からず。これにより、今月13日にまたまた(寺社奉行に)伺い出でましたところ、御役人がおっしゃるには、『春のうちに、牧野様がお調べしたこともあるので、お願いをするならば牧野様へお伺いするように』と申し聞かされ、しかしながら、盆中の事なので、お伺いは差し控えていました。17日には牧野様へ参上して歎願するつもりです。春のうちにお調べも済んでいるとのことなので、ご安心ください。先日よりすぐに、申し上げるべきところ、以上の次第が分からずに、仕方なく口頭のみで申し上げた次第です。この件、お許しください。なお追々、吉報をお伝えできると思います」、とあった。14日に出した日付である。
 作太夫にさらに様子を聞いたところ、牧野様の御転役はなく、松前様が御新役で、有馬様の御後役ということで、最初に有馬様がご担当した分は、この度松前様へ引き継がれるとの話だった。両所と年番役人へ別に書面があるのか尋ねたところ、あるとのことだった。これから桜山へ持参するのだと、作太夫が言っていた。

(中略)

 (8月)14日 曇り
 飛脚吾助が昨夜帰って来たとのことで、在府の猿田由膳(藤四郎祢宜)よりの書面を持参した。書面の趣旨は、「先月17日に牧野様へお伺いに参上したところ、取り調べて追って沙汰するとのことで引き取り、その後23日頃より激しい腹痛を患い、薬を飲んでようやく29日頃に快方に向かい、伺い書をしたためて、晦日(月末)にまた伺ったところ、これから沙汰を始めるとのことでした。調べることはもうなく、御上へ伺いの上申し渡しがある様子なので、もう程なく済むとのことでした。6日には御沙汰があると思っておりましたがその儀はなく、おそらく18日には吉報があると思います。この件ご安心くださいますよう。費用の件も病気もあって、大変困っていますので、先日両所(大宮司家と当祢宜家)へ書面を差し出しましたところ、追ってお金を送っていただける旨、ご返事がありました。どうぞ宜しくご相談頂けますようお願いいたします。なおまた、吾助へ口頭でおっしゃっていた件は、子細承知致しました。」と言うような書面だった。書面と同じように吾助も言っていた。書面は7日に出されていた。吾助は10日に出立したと言う事だ。

(中略)

 24日 昨夜より大雨、今日も降り、夕方止む。
(中略)
 今日、飛脚吾助が出府するので、在府の猿田由膳へ書面を遣わした。「先日、吾助が帰村の際、書面にて御奉行の様子もおおよそ良さそうとのことで、とても喜ばしいです。しかし、先月23日より、29日ごろまで体調がよろしくないとのことで、さぞお困りとご察します。なおまたご苦労をおかけしますがよろしくお願いいたします。費用の件は両所へも相談申し入れましたので、近々お送りすると聞いています」と申し遣わした。​

注釈

*1 吾助(五助)…町飛脚。新町。月数度、主に鹿島江戸間を往復。

*2 松嶋丁(町)…現日本橋人形町2丁目。藤四郎袮宜が公事宿(くじやど:訴訟のため出府してきた者たちの幕府公認の宿泊所)として滞在した場所。南は永代橋東から北に入った入堀に面し、三方は土浦藩主土屋家上屋敷・鶴牧藩水野家中屋敷などに囲まれている。東北部に松嶋稲荷あり。​

*3 還御(かんぎょ)…第十四代将軍徳川家茂はこの年(文久3・1863年)2月江戸を出立、3月4日上洛した。そして天皇との謁見を終え、6月13日大坂城を「御発駕。御乗船…十六日浜御殿御着。御入城」(『続徳川実記』)。しかし丹下の『日記』では「当十一日に御着相違これ無し」とある。情報の不正確さ故か。

*4 ​​作太夫…角内。立原氏。鹿島神宮の御師(おし)。御師は神宮参拝客の仲介役で宿泊の業も兼ねる。

*5 牧野様…牧野備前守忠恭、越後長岡藩主(6万8000石)。寺社奉行(文久2年3月24日~文久3年8月24日)、老中(文久3年9月~慶応元年4月)などの役職につく。

*6 松前伊豆守様…松前崇弘、蝦夷福山藩主(3万石)。寺社奉行(文久3年4月28日~同8月13日)、老中(元治元年7月~慶応元年10月)などを歴任。​

*7 有馬殿…有馬遠江守道純。戦国キリシタン大名、有馬晴信の子孫。越前丸岡藩主(5万石)。父温純。寺社奉行(文久2年6月30日~文久3年1月22日)、老中(文久3年7月~元治元年4月)などを務める。明治になり子爵。

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