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4.文久3年6月21日 藤四郎祢宜、鹿島を出立

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記事ID:0069282 更新日:2023年1月26日更新

『惣大行事日記』より)

 鹿島丹下の帰職伺いのため出府が決まった藤四郎祢宜ですが、高齢の藤四郎にとっては不本意な単身赴任であり乗り気ではありません。帰職伺いの他、無宿人千代吉・伝蔵の赦免願い、その他の件もからみ出府は伸び伸びとなります。6月10日に丹下は藤四郎に「昨日の会所で正式に出府が決まったはずですが、本日出府するのですか?延期になるなら理由をお聞かせください」と書面で催促。丹下のいら立ちが伝わってきます。
 6月18日にはあまりに日延べしたことを気の毒に思った大宮司が、藤四郎と同じく年番役人の田野辺(大祝)の2人を会所で尋問。藤四郎は6月21日にようやく鹿島を出立します。その部分を抜粋してご紹介します。​

原文

文久3年6月21日 藤四郎祢宜、鹿島を出立 [PDFファイル/198KB]

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読み下し文

 (六月)十日 晴 大暑
金毘羅尊へ神酒献ず。
藤四郎袮宜へ書面遣わす。出府の儀先日両所へも相尋ね候ところ、昨九日参会にて聢と取り極りに候。今日出府の趣両所より申され候え共、今日出府相成り候や、若又今日も延引の事にては如何の子細にて、斯迄(かくまで)延日に及び候や承りたく、是迄懇意の事故、腹蔵無く申し送られ候様致したく、四月中より右の儀両所へも頼み置き候ところ段々延引、相談埒明き申さず不審に存じ候。何等の子細に候や、万一様子もこれ有る儀ならば内々承りたく、夫れに従い取り計らい方もこれ有るべし。若しや今日出府に相成り候はば、何分一寸立ち寄り給い候様にと申し遣わす。右は千代吉・伝蔵伺いの儀にて、延日は承知致し居り候え共、態(わざ)とか様に知らざる振り合いに認め送り候なり。
返書の趣、昨日参会寄らずにて流れに相成り候間、何れ取り極り次第罷り出ずべくと存じ居り候。何も子細等これ有る儀にてはこれ無き趣、丁寧の返書なり。段々風説承り候ところ、藤四郎儀はこの方伺い一筋に出府の積り、去り乍(なが)ら同役の事故田野辺帰り候上、一応咄し合いの上出府致すべく、勿論忰も留守にて延引の様子なり。然る処田野辺罷り帰り候て、右千代吉・伝蔵等赦免伺いの儀、根本寺より歎願もこれ有り候事故、惣大行事伺幸いの事に候間、一緒に伺い差し出し然るべき旨、内々桜山などを取り拵(こしら)え一昨日参会に相成り候事の由なり。千代吉等より田野辺賄賂等これを取り、右等の計らいに及び候事と相見え候。

(中略)

  十八日 晴 大暑
昨夜吉夢あり、右に付き今日神酒献ず。
一、同夜惣三郎来たる。大宮司より人参り候て罷り出で候ところ、隅州直談に申され候は、今日参会出席、伺い出府の儀相尋ね候ところ、藤四郎大酔にて出席致さず、田野辺方にて取り計らい兼ね候由挨拶に付き、夫れにては相済まず御手前より藤四郎へ人遣わし、呼び寄せ候様田野辺へ申し聞け候に付き、同人より藤四郎呼び寄せ漸く酔中乍ら出席これ有り、よって出府の儀如何致し候や両人へ相尋ね候ところ、藤四郎両組代罷り出で候に相違これ無く、弥(いよいよ)明日出府致すべき趣挨拶これ有り候。神野にて久しく病気の趣にて欠席旁誠に是迄捗(はかど)り申さず、今日は万一両組にて決着これ無く候はば、手前出府の覚悟いたし出席いたし候ところ、漸く、右の決着に相成り候間、先ず此の段御安心下さるべく候。尤も入用の儀日数延引に付き、四両金の内日割りにいたし減じ候様にも致すべきと、先日右の段申し上げ候え共、貴家より御差し出しの向きに候得共、何れ共取り計らい能く候え共両所より立て替えの趣、表向き申し聞け置き候儀故、少々のところ日割りにて減少いたし候も如何と存じ、定め通り在府入用三両往復一両、都合四両金相渡し候積りに御座候。尤も三両貴家より御届け分二分手前より差し出し三両二分相渡し、神野より出し分二分は代官番へ申し聞け、神野より藤四郎へ直渡しの積り申し入れ候。左様御承知下さるべく候由、委細惣三郎方へ申し送られ候。隅州より惣三郎迄内咄しに伺いの儀、両組一同罷り出ずべきところ故、田野辺より藤四郎方へ咄これ有り、右四両金の内二百疋位は田野辺へ、酒代として差し遣わし候やに承り候。然らば藤四郎方にては日数つまり候ては、さまでの余分も有る間敷くと咄され申し候。

  ​十九日 昨夜より雨降り、今朝五ッ半頃止む。能きしめりなり。
今朝惣三郎藤四郎祢宜方へ遣わす。此の度伺いの為出府御苦労千万の旨挨拶なり。然るところ今日は少々用事これ有り、出立相成らず明日発足致し候間、何れ夕方迄に御見舞い申し上ぐべき由申し候由なり。
一、桜山へ惣三郎を以て段々伺い出府の儀、御心配に預り候段礼に遣わす。
一、今タ藤四郎祢宜来たる。明日出府の趣なり。よって伺いの儀相成るべくは書面を以て伺いくれ候様頼み候ところ承知なり。尤も先刻桜山へも参り、右の段相談いたし何分様子次第一名にて、書面差し出し候筈の由なり。外伺い筋は千代吉・伝蔵帰住の儀、並びに中町勝二郎帰参の儀、是は山口丹波守殿掛りにて吟味中、宿紛失永の尋ねに相成り居り候儀故、寺社奉行へ伺いの儀筋違いにこれ有り、右の段藤四郎より桜山へも申し談じ候ところ、両所にても右等は如何と存じ候得共、年番にて折角推挙の事故余儀なく伺い書は相認め、調印いたし候え共、出府の上様子次第に取り計られ候様にと桜山は申され候由。誠に哭(な)くに堪えたる儀なり。藤四郎へ酒振る舞い、いろいろ旧冬より当春在府中の儀相尋ね候ところ、三月一日留役飯島氏尋ね候節、丹下は何れに居り候や尋ねる故、鹿島ヘ帰参罷り在り候旨申上げ候ところ、ソウ力と許りにて尋ねもこれ無く、夫れより職料等の儀尋ね申し候由、猶又御年礼は丹下も相勤める身分に候や尋ねる故、大宮司同様相勤め候旨申し答え候由なり。右両談三月中帰村の節品々相尋ね候え共申さず、今日初めて承り候。誠に埒もなき人物なり。

​ (中略)

​  二十一日 晴 炎天
(中略)
今朝能右衛門来たる。藤四郎祢宜今朝出立と見へ、早く通り候由なり。昨日如何いたし延日候や、兎角一日宛も延べ置き入用の余分これ有る様にと心懸け候事と察せられ候。卑劣千万の儀なり。

​(後略)

現代語訳

 (6月)10日 晴 大暑
 金毘羅尊へ神酒を献上した。
 藤四郎袮宜へ書面を遣わした。「出府の件、先日両所(大宮司家と当祢宜家)へも尋ねたところ、昨日9日の会所で、しかと取り決まったとのこと。今日出府するようにと、両所より言われたことと思いますが、今日出府することになりましたか?もし今日も延期になるようでしたら、どういう事情でこうまで日延べになっていらっしゃるのかお聞きしたく存じます。これまで懇意にしてきましたので、包み隠さずお伝えください。4月中よりこの件は両所へもお頼みしておりますので、あれこれ日延べして相談が埒明かないことを不思議に思っております。どういう事情なのでしょうか?万一事情があるのでしたら内々に承りたく、それによっては取り計らい方もあります。もし今日出府されるのでしたら、どうか少しお立ち寄りください」と伝えた。千代吉・伝蔵*1の赦免伺いの件で、延日していることは承知していたが、わざと知らぬふりをして送った。
 返書には、「昨日の参会は集まらずにお流れになりましたので、いずれ取り決まり次第参上しなければと思っております。何も事情などはありません。」と丁寧な返書であった。あれこれ噂を聞いたところ、藤四郎は私の帰職伺いのためだけに出府のつもりだったが、同じ役目(年番役人)である田野辺(大祝)が帰ってきた後に、一応話し合いの上で出府しようとしていて、もちろん藤四郎の息子も留守で*2日延べしてしまった様子である。そこへ田野辺が帰ってきて、千代吉・伝蔵等の赦免伺いの件が、根本寺*3より歎願があり、惣大行事帰職伺いの件があるのでこれ幸いと一緒にお伺いを出すのが相応しいと、内々に桜山(大宮司)などに取り計らって、一昨日参会になったという。千代吉等より田野辺に賄賂などがありこのような計らいになったと思われる。
(中略)

​  18日 晴、大暑
 昨日は縁起の良い夢を見たので、今日は神酒を献上した。
 今日の夜、小沼惣三郎が来た。大宮司家より人が呼びに来たので出向いたところ、大隅守(大宮司)が直に申されるには、「今日の参会に出席し、帰職伺い出府の件を訪ねたところ、藤四郎は酒にひどく酔って出席せず、田野辺が対応しかねると説明したが、それでは済まず、私から『藤四郎方へ人を遣わして呼び寄せるように』と田野辺へ申し伝えたところ、田野辺は藤四郎呼び寄せ、しばらくは酔ったまま出席した。そこで出府の件がどうなっているのか両人に尋ねたところ、『藤四郎が両組*4を代表して参上するのは間違いなく、いよいよ明日出府しようと思います』と応答があった。神野(当祢宜)はしばらく病気で欠席していることもあり、本当にこの件ははかどらず、今日、万一、田野辺と藤四郎の両組で決着がなければ、私が出府する覚悟をして出席しましたが、ようやく以上のように決着となりましたので、まずはこの件、ご安心下さい。ただ、費用の件は、日延べしたので、4両金を日割りにして減らすようにするべきと先日申し上げましたが、いずれ貴家(惣大行事家)よりご負担いただく方向でお取り計らい頂くとはいえ、両所(大宮司家と当祢宜家)より立て替えるという趣旨を表向きは申し聞かせているので、少々日割りにして減少するのもいかがかと思い、定め通り在府費用は3両、往復1両の合計4両金を渡すつもりでございます。もっとも、3両貴家からお届け頂いた分に加えて、2分を私(大宮司家)より差し出して、合計3両2分を渡し、神野(当祢宜家)より負担分の2分は、代官番*5へ申し伝え、神野から藤四郎へ直接渡すつもりと申し入れます。この件、御承知下さい。」と詳細を惣三郎へお伝えになった。大隅守が惣三郎に内々に「帰職伺いの件は、本来は両組が一緒に参上するべきところなので、田野辺から藤四郎へ話をして『4両金の内200疋くらいは田野辺へ酒代として差し遣わします』というので承知した。藤四郎方は日数が減ったのに、そうまで余分があってはならない」と話していたと言う事だ。

​  19日 昨夜より雨降り、今朝五つ半(午前9時)頃止む。よく湿り気あり。
 今朝、惣三郎を藤四郎祢宜方へ遣わした。この度の帰職伺いのための出府、大変ご苦労様ですとの挨拶である。しかし、今日は少々用事があるので出立できず、明日旅立ちますといい、夕方までに御見舞いに伺いますとのことだった。
 ​​一、惣三郎を桜山へあれこれ帰職伺い出府の件を御心配に頂いたお礼に遣わした。
 ​一、今タ、藤四郎祢宜が来た。明日出府するとのことだ。そこで帰職伺いの件について、できれば書面でお伺い頂けるよう頼みますとのことだったので、承知した。もっとも、先ほど桜山へも参上してこの件を相談し、いくらか事の次第を別名にて書面を差し出したはずである。他に伺いの件は、千代吉・伝蔵帰住の件、並びに仲町の勝二郎*6帰参の件―これは山口丹波守殿の担当で吟味中であるが(勝二郎は)無宿人で永の尋ね(無期限に捜索)の件なので、寺社奉行へ伺いを立てるのは筋違いである。この件は、藤四郎より桜山へも申し上げたところ、両所にてもこれについては如何と思いながらも、年番よりせっかく推挙された事なので、仕方なく伺い書は認め、調印したものの、出府の上様子を見て取り計らうように、と桜山は仰っていた、とのことだ。誠に泣くのを堪える件である。藤四郎へ酒を振る舞い、いろいろ去年の冬から今年の春に在府中の件を尋ねたところ、「3月1日に留役の飯島氏をお訪ねした時、丹下はどこにいらっしゃったのですかと」尋ねるので、鹿島ヘ帰参していた旨を答えると、「そうか」というだけで、私の質問に返答もなく、それからお役目の費用などの件を尋ねたが、それでもまた「御年礼*7は丹下もお勤めできる身分ですか」と尋ねるので、「大宮司同様にお勤めできます」と答えた。右の2つの話は、3月に鹿島に帰村した際に色々話をした際には尋ねずに、今日初めて聞いたことだ。本当に埒が明かない人物である。

(中略)

 21日 晴 炎天
(中略)
 今朝、(松信)能右衛門が来た。藤四郎祢宜は、今朝出立したようで、早くに通りましたとのことだ。昨日はどうして日延べしたのか、とにかく、1日日延べして費用の余分があるようにと思っているのではないかと察せられる。卑劣千万である。
(後略)​

注釈

*1 千代吉・伝蔵…兄・千代吉、弟・伝蔵の兄弟で、桜町在。千代吉は嘉永6(1853)年、勘当され無宿人となり、安政6(1859)年に死罪の判決が出されていた。伝蔵は安政5(1858)年家出して無宿人となる。兄弟共に根本寺に入り、地元民から赦免願いが出されていた。

*2 「勿論忰(せがれ)も留守にて」…6月7日の日記に「藤四郎儀も忰他行にて留守これ無く出で兼ね候」(藤四郎も息子が外出していて留守番がおらず出府できない)とある。

*3 根本寺…下生。瑞甕山根本寺(ずいようざんこんぽんじ)。寺説に、推古天皇の時に高麗僧恵灌が開創。本尊は薬師・釈迦・弥勒の坐像。寺領百石。文久3年から元治元年にかけて正義隊(水戸天狗党)の拠点となる。鹿島惣大行事家の菩提寺でもある。​​

*4 ​​両組…ここででは、当年の年番役人である大祝(三座)と藤四郎(向座)の二人のこと。

*5 代官番…町名主が任命された。その年の金穀等の出納を行う。また、社用役人に代わって、年番参会の伝達等も用務とする。

*6 勝二郎…仲町。無宿者となって根本寺に入寺、改心の修行をしていたはずが、文久3年5月20日には刃傷沙汰を起こしている。この後8月14日には逮捕され、江戸へ連行される。​

*7 御年礼…江戸城での将軍に対する年賀の挨拶。鹿島の三支配(三職)はその拝謁を許されていた。

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