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3.文久3年5月26日 藤四郎祢宜が幕府への使者に内定
(『惣大行事日記』より)
鹿島丹下の惣大行事職復帰への一番の課題は、鹿島神領2千石の支配者である大宮司以下社用役人の意志統一でした。
近世に入り、鹿島神領は年番制の神領役人=社人によって支配・運営されていました。鹿島神宮前の二之鳥居付近に「会所」(司法・立法・行政・治安警備を兼ねた役所)と御蔵があり、毎日役人が詰めていました。その最高権力者が「三職」と呼ばれる大宮司(鹿島中臣氏)・惣大行事(鹿島大掾氏)・当祢宜(東氏)の御三家です。職禄は時代によって相違がありますが、当時は大宮司が200石、惣大行事は神領と幕府から計200石、当祢宜は物忌も合わせて200石。その下に「三座」の大祢宜、大祝(おおほうり)、和田祝があり、次に「向座」(こうざ)の五職、すなわち検非違使・総追捕使・藤四郎祢宜・田所祝・坂戸祝がいました。さらにその下に小社家・寺家など数十名がおり、みな世襲制となってそれぞれの任についていました。
「会所」は各階層の代表者による合議制で、1年交代で務めるその年の当番を「年番」と呼びました。文久3年の年番は三所から大宮司、三座から大祝、向座から藤四郎祢宜、小社家より伝神・行事祢宜の2名、寺家より広徳寺が勤めています。
さて文久3年、会所では鹿島丹下の惣大行事職帰職伺いのため、幕府への使者の人選とその費用負担を巡って討議が行われますが、欠席者や反対者もいて、遅々としてはかどりません。公職追放の身だった丹下は表立った動きもとれず、やきもきした毎日を過ごします。しかし、その制約下にあっても、年番役人を自宅へ呼び、自ら酒・吸物を出して接待し、大宮司家や当祢宜家へも再三足を運んでいます。費用についても、「三両を惣大行事家で工面するので、両所(大宮司家と当祢宜家)の名義で立て替えて頂けませんか?」と水面下で交渉します。その甲斐あってか、ようやく5月26日に向座の年番役人である藤四郎祢宜(猿田由膳)が出府と内定し、会所に出席できない丹下は当祢宜(神野)からの手紙で詳細を知ります。当日の日記を紹介いたします。
読み下し文
(五月)二十六日 昼前雨天。それより晴れる。
今タ神野より手紙来たる。先日御書面のところ、御返書も上げ申さず、失礼御免下さるべく候。然らば御頼みの伺い入用筋の儀、今日参会にて、大隅殿よりも貴所様御頼み通り、このたびは両所名前にて三両金差し出し候つもり然るべき旨、手前へ談じこれ有り候間、その通り然るべき旨挨拶に及び、すなわち右の段年番へ披露に及び候ところ、一同否やこれ無く、よって出府のところは、大祝留守中故、藤四郎袮宜出府のつもりに、荒増(あらまし)決着に相成り、尤も藤四郎申し候には、三両一ヵ月にては不足の由これを申し候に付き、あと一両金両所より貴所様へ御助け合い申し、藤四郎へは、四両金相渡し候つもりに御座候。この段御内々申し上げ候。尤も、少々の儀に候えども、桜山へ右御挨拶御頼みの御使いを遣わされ候ところ然るべし。この段愚意に御座候えども、申し上げ候由の本文。その外端書に家内へ伝声申し来たる。右返書に及び候は、段々願いの儀に付き、御心配忝く、今日参会にて御取り計らいの趣、委細仰せ聞かされ、承知いたし候。三両の外一両は御両所より御都合下さるべき趣、甚だ相済まざる事に御座候。いずれ罷り出御礼旁(かたがた)申し上ぐべく候。なお又桜山へ挨拶の儀仰せ聞かされ、御尤もに承知致し候趣、礼申し遣わす。端書の返答並びに家族より伝声の趣相認め候。控え別紙これ有り。
一、右書面の儀に付き、桜山へ惣三郎遣わし申すべくと存じ、人を遣わし候ところ、惣三郎方へ桜山より呼びに参り、罷り出候由にて桜山より帰り、直ぐ様この方へ来たる。右神野より書面の趣に相違これ無く、尤も出府の儀は、大祝留守旁聢(しか)と取り決まり申さず、四・五日中又々参会のつもりにて、退席致され候由なり。桜山にて大隅殿惣三郎に直談の由なり。
現代語訳
(5月)26日 昼前は雨天。それより晴れる。
今日の夕方、神野(当祢宜家*1)より手紙が来た。「先日お手紙を頂きましたが、お返事もせず、失礼をお許しください。さて、お頼みの伺い(帰職伺い)と必要経費の件、今日参会の時に、大隅殿(鹿島大隅守則孝)*2より貴所様(惣大行事)の御頼みの通り、このたびは両所*3(大宮司・当祢宜)の名前で3両金を差し出すつもりである旨、私へお話がありましたので、その通りにしましょうと応じました。これについて年番*4へ披露したところ、一同反対意見はなく、そこで出府については、大祝*5が留守中なので、藤四郎袮宜*6が出府する予定に、おおよそ決着しました。もっとも、藤四郎が『3両で1ヵ月では足りない』と言うので、あと1両金を両所より貴所様へお助けして、藤四郎へは、4両金を渡すつもりです。このことを内々に申し伝えます。ただし、少しの事と言っても、桜山(大宮司)*7へこの件についてご挨拶とお頼みのお使いを遣わすのが適切かと思います。このこと、愚意ではございますが、申し上げます。」との本文。そのほか、端書に家内への伝言があった。これに返書をして、「あれこれお願いした件について、ご心配かたじけなく、今日の参会で、お取り計らいいただいた詳細お聞きして、承知致しました。3両のほか、1両は御両所より御都合下さるとのことで、とてもこのまま済ませるわけにはいきません。いずれお礼かたがた参上致します。なおまた、桜山へのご挨拶についても、ごもっともですので承知致しました」とお礼を伝えた。端書の返答と家族からの伝言についても一緒にしたためた。控えが別紙にある。
一、右の書面の件について、桜山へ(小沼)惣三郎*8を遣わす旨を申し上げようと、人を遣わしたところ、惣三郎方へ桜山より呼びに来たので参上したとのこと。惣三郎は桜山より帰ると、すぐにこちらへやって来た。「右の神野よりの書面の趣旨について相違はなく、ただし出府の件は、大祝が留守中であることもあり、はっきり決定しておらず、4、5日中にまた参会するつもりで退席した」ということだった。桜山にて大隅殿が惣三郎に直に話したことである。
注釈
*1 当祢宜家(とうねぎけ)…東(とう)家。鹿島神宮の三職として「物忌(ものいみ)」代を務める。その住居から神野家とも呼ばれる。このときの当主は東主膳胤吉。
*2 大隅殿…鹿島大隅守則孝。この時の大宮司家当主で鹿島神宮の最高責任者。当年の年番役人。
*3 両所…鹿島神領2千石の最高権者が「三所」。「両所」はそのうちの2人。「両職」とも。ここでは鹿島大宮司家と東当祢宜家を指す。
*4 年番…鹿島神領の支配体制は、各階層の1年交替の代表者による合議制。毎年三支配(三所)より1名、三座より1名、向座(こうざ)より1名、小社家2名、寺家1名が勤める。ここで大祝ほか年番役人のこと。
*5 大祝(おおほうり)…松岡彦郎。三座の一人でこの年の年番役人。在所名から通称「田野辺」。
*6 藤四郎袮宜(とうしろうねぎ)…猿田由膳。向座の一人でこの年の年番役人。大町。「惣大行事日記」中最多登場人物。
*7 桜山…鹿島大宮司家のこと。「新誌補云、桜山とは鹿島大宮司が館のある所なり、其辺の人居を桜町と云ふ……」(『大日本地名辞書、坂東編第6巻』1153頁 冨山房)
*8 小沼惣三郎…惣大行事家の筆頭用人。新町。