本文
7.文久3年9月23日 藤四郎祢宜、再度出府
(『惣大行事日記』より)
藤四郎祢宜の出府費用減額についての不満を聞いた鹿島丹下は、金策に走ります。鹿島神宮の神官で藤四郎祢宜と同じ向座の一人である坂戸祝(一馬)の協力もあり、角内の作太夫らの有志が3両を工面してくれることになります。その甲斐あってか鹿島に帰ってきた直後は出府役の交代を希望していた藤四郎祢宜でしたが、再出府について「大いに承知」と返答があります。
丹下は桜山(大宮司)と神野(当祢宜)へも話を通しており、出府の費用については、鹿島神宮の御蔵から出すという話もありましたが、会所の意見がなかなかまとまらず、さらには決着するまで再出府を日延べする案も出ます。結局、藤四郎は丹下が用意した3両を持って9月23日再出府していきます。
表立って動けない丹下がやきもきする様子も読み取れる、再出府の顛末を読んでみましょう。
読み下し文
(九月)十五日 晴 暖かなる方
(中略)
一、坂戸一馬来たる。久々にて見えられ候。藤四郎帰村の儀承り、参り候由なり。詳しく咄聞き候。早速帰る。
十六日 晴 夕方より雨降る
(中略)
一、今日能右衛門、藤四郎方へ遣わす。お酒一つ進じ申し度く候間、御来儀給わるべく候旨申し遣わすなり。夕方参るべき由返事のところ、雨天に相成り候故か、参り申さず候。(後略)
(中略)
十九日 晴
(中略)
一、坂戸来たる。藤四郎袮宜伺い出府入用の儀に付き、内談これ有り。
(中略)
一、今晩四ッ時過ぎ坂戸来たる。先刻咄これ有り候金談の儀、角内作太夫・源六・佐七三人、申し談じ候ところ、何れ出来申すべき趣。尤(もっと)も明朝までに挨拶はこれ有るべき由に付き、藤四郎祢宜方へ坂戸罷り越し、出府の儀頼み入り候ところ、同人も大いに承知致し候趣なり。今晩坂戸は罷り帰り候由にて早速帰られ候。
二十日 曇り
(中略)
一、五ッ時(午前八時)藤四郎祢宜来たる。六月二十六日に松前様へ差し出し候伺い書、並びに七月晦日(みそか)牧野様へ上げ候伺い書二通控え持ち参り候。なお又在府中の儀、委細承り申し候。吸物・御酒・中飯等相勧め、九ッ半(午後一時)頃帰られ候。一昨日桜山へ参り、昨日神野へ出で候由咄なり。今度出府の儀頼み申し候ところ、大いに承知の挨拶なり。入用等の儀も種々申し談じ遣わし申し候。
(中略)
一、今晩両所へ見舞い。先ず神野へ参り面談。六月中よりの入用筋等取り付けの一礼申し述べ、さて今般藤四郎祢宜出府の儀、何卒(なにとぞ)日限通り出府相成る様頼み入り、且つ入用の儀段々御社蔵より御差し出し、御取り計らいも御迷惑察し入り候に付き、この度出府丈(だけ)の金子は手前より差し出し申すべき存意の趣申し入れ候ところ、熊二郎申され候は、思し召しの段々御尤もに存じ候えども、一体七月中大隅殿へも相談の上、御社より御差し出しの儀、千代吉・伝蔵その外伺い筋もこれ有る故、先ず何となく御遣い出し置き、然(しか)るべき旨に相成り、年番承知の上三両金差し登らせ、その後藤四郎帰村の頃、変死届け等もこれ有り旁(かたがた)、又三両金差し登らせ置き候。この筋も千代吉の儀伺い、未だ相済み申さず候間、矢張(やはり)両様を兼ね出府に相成り候間、又々何となく御社蔵より遣い出し置き然るべき旨、先日の参会に相談相決し居り候間、御差し出しにも及び申すまじく、なお又御社より出金不足にも候はば、両所においても御助成致し候心得に御座候由、申され候。色々申し談じ、然らば思し召しに従い申すべく候。尤も御社より出金不足にも候はば、御両所へ係り候段、甚(はなは)だ気の毒に存じ候間、手前より差し出し申すべし。御遠慮なく仰せ聞かされ度く、且つ桜山へ未だ出で申さず候間、桜山へも右の段心得のところは申し入るべきやと申し候ところ、それは思し召しに候えども、右申し上げ候通り、相談決着相成り居り候間、それまでにも及び申すまじくと、熊二郎申され候間、左候はば桜山へは只々(ただただ)出府相談の儀頼み入り、なお又入用の儀は先方より咄出し候はば、それに従い申し談ずべき由、熊二郎と内談致し罷り立ち候。
それより桜山へ参り面談致し、右出府相談等の儀申し入れ候ところ、未だ参会寄らず旁決着これ無く、入用の事も神野にて申され候通り、有増(あらまし)はその心得に候えども、今一評これ無く候ては相決し難く、勿論両所にても二百疋宛(ずつ)は幾度出府に相成り候とも、御助け合い申し候心得に、これ有り候趣と申し候間、それにては甚だ気の毒にも候、御社より御出金不足のところは、手前より差し出し申すべき旨申し談じ候ところ、如何にも様子次第申し上ぐべき由、答え申され候。両所の存意少々異同これ有り。(後略)
二十一日 曇り 九ッ時より降る
今朝藤四郎祢宜へ書面遣わす。昨日入用の儀に付き、内意申し入れ候えども、昨夜両所の意存も承知に付き、その通り申し送る。尤も内々なり。
一、作太夫呼び、一昨日坂戸より金子の談(はなし)申し入れ候段承り、なお又一礼申し聞け候。
一、同人咄に坂戸儀、船津に用向きにて居り候に付き、右金の儀にて作太夫などより人遣わし、弥左衛門方まで参り候筈の由咄申し候間、弥左衛門方へ向け、坂戸への書面遣わし申し候。右金子の儀に付き、少々咄も致し度く候間、一寸(ちょっと)参られ候様にと申し遣わすなり。弥左衛門方へいまだ参り申さざる由にて、書面頼み置き候由。
(中略)
二十三日 曇り 雨少々降る 夜大いに降る
今朝作太夫方へ書面にて、坂戸へ金子相渡し候や尋ね候ところ、一昨夜相違無く相渡し候由返事なり。夕方右の儀に付き、作太夫罷り出で候。金子三両一分三朱、西側の者にて出来候に付き、右金残らず坂戸へ相渡し候由なり。且つ麹屋与兵衛より頼まれ候由にて、この節願い入用の儀承り与兵衛より見舞いとして、金五十疋持参の由なり。尤も与兵衛申し候には、御地面に拘(かかわ)り候儀もこれ有り候由、作太夫まで申し述べ候由。右は本高の内、国主脇の辺、同人開発致し置き候由、右の儀にこれ有るべく察せられ候。
一、桜山へ能右衛門遣わす。藤四郎出府の儀如何御相談相決し候やの旨、尋ね遣わし候ところ返事、昨日同人へ申し付け候入用の儀は、同人より御承知なされ候由申し来たる。右に付き、直ちに藤四郎袮宜方へ能右衛門遣わし候ところ、只今出立の積りにて居り候。御立ち寄り申すべきところ、取り急ぎ候間御立ち寄り申さず。入用は昨日坂戸より金三両受け取り申し候。委細は同人より御承知なるべき由申し来たる。これによりなお又能右衛門藤四郎へ遣わし、是非一寸立ち寄り呉れられ候様申し遣わし候。
一、四ッ時(午前十時)藤四郎祢宜出立がけ来たる。面会にて参会の様子承り候ところ、昨日の参会藤四郎も出席。神野にては不快の由にて、社用を呼び内意に入用金の儀、この度は御社より差し出し然るべき由、申し付けられ候由。桜山出席にて年番へ申し談ぜられ候えども、早速決着これ無し。それに付き桜山より申し談ぜられ候は、日限帰村にても先例三十日位の日延べ、宿より願い上げ候例これ有り候間、この度は右様致し然るべきや、それとも藤四郎方にて入用工夫これ有る間敷きやの由申され、藤四郎答え候は、拙者帰村願い致し罷り下り候儀故、日限通り出府致さず候ては御奉行所表に相すまず、且つ又入用の儀拙者方にて工夫等とは存じも寄らざる儀、何分この度の儀は、惣大行事殿にも心得これ有るや承知致し候間、何れにかいたし、出府申し候由断り、会所は引き取り候由。則ち金子は坂戸より受け取り申し候間、先ずそれにて出府致し候由咄なり。昨日この方より藤四郎まで内書申し遣わし候とは、大いに相違の相談にて、殊に日延べ等の儀まで申され、桜山の意存如何敷き由、藤四郎咄され候。これにより一昨夜桜山にて、立派の挨拶にてか様に〔 〕これ有り候様、甚だ心得難き段、藤四郎へ咄し申し候ところ、あの人はいつにても左様に変心の癖これ有り、などと藤四郎咄し申し候。尤も桜山申され候に、両所にて少々くらいのところは助け合い申すべき由申され候由、藤四郎咄され候。藤四郎方へ伺いの儀委細相頼み候。直ぐ様出立致され候。
一、同タ神野より書面来たる。先夜仰せ聞かされ候願い入用の儀、昨日参会不快故罷り出ず。社用を呼び愚意申し入れ候に付き、桜山へ年番へ相談致され候ところ、不参がちにて決着相成らず、然るところ藤四郎より貴家御内意の趣にて、当分入用御差し出し候趣申し出候に付き、一同右に決着相成り候由、甚だ残念に存じ奉り候。小子出席致し候はば藤四郎へも内談致すべきところ、不快に付き右様相成り、よん所無き次第に御座候由、丁寧に申し来たる。熟柿沢山子供等へ贈られ候。返書申し遣わし候趣は、昨日参会の儀に付き、委細仰せ聞かされ、承知致し候。先夜御内々申し上げ候入用の儀、御内意も御座候間、桜山へは申し出ず、只々頼み入り候ところ、貴所様へ仰せの通り、桜山よりも相咄され候。一体手前金談の儀、外に世話致し呉れ候者これ有り候故、その者より藤四郎へも相咄し候事故、会所において藤四郎よりも申し出候事と存ぜられ候。但し素よりこの度は、小子方より差し出し候心得の金子故、必ず御心配下されまじく、尤も右の儀に付き候ては、少々御咄し申候子細もこ有り候えども、御面上にこれ無く候ては、申し上げ難き段の御配慮の段は、ことごとく相弁(わきまえ)え居り申し候由一礼相認(したた)め、並びに柿の礼等丁寧に申し遣わし候。
(後略)
現代語訳
(9月)15日 晴 暖かなる方
(中略)
一、坂戸一馬*1が来た。久々にお会いした。藤四郎が帰村したと聞いて、参上したとのことだった。詳しく話を聞いて、早速帰る。
16日 晴 夕方より雨降る
(中略)
一、今日、(松信)能右衛門を藤四郎方へ遣わした。お酒を一つ差し上げたく、ご来訪願えませんかと申し遣わした。夕方伺うつもりですと返事があったが、雨天になったせいか、来なかった。(後略)
(中略)
19日 晴
(中略)
一、坂戸が来た。藤四郎袮宜の帰職伺い出府の費用について、内々に相談があった。
(中略)
一、今晩四ッ時(午後10時)過ぎに坂戸が来た。先刻話があったお金の話について、角内作太夫・源六・佐七の3人に相談したところ、近々用意できるだろうとのこと。ただし、明朝までに返事が欲しいとのことだったので、藤四郎祢宜方へ坂戸が参上し、出府の件をお願いしたところ、同人も大いに承知したとのこと。今晩、坂戸は帰るということで、早速帰られた。
20日 曇り
(中略)
一、五ッ時(午前8時)、藤四郎祢宜が来た。6月26日に松前様へ差し出した伺い書、並びに7月末日に牧野様へ上げた伺い書の2通の控えを持って参上した。また、在府中の件の詳細を聞いた。吸物・御酒・昼食等を勧め、九ッ半(午後1時)頃に帰られた。一昨日桜山(大宮司家)へ参り、昨日神野(当祢宜家)へ参上したと話していた。今度の出府の件をお願いしたところ、「大いに承知」との返答だった。費用の件も、いろいろ相談していると言っていた。
(中略)
一、今晩、両所へ訪問した。まず神野へ参上し面談。6月中よりの費用の件お取り計らいのお礼を申し上げ、さて今度の藤四郎祢宜出府の件、何とぞ日限通り*2に出府できるようお願いし、かつ費用の件は次から次へと御社蔵(鹿島神宮の蔵)より出していただくよう、お取り計らい頂くのもご迷惑かと察し、この度出府するだけのお金は私からお出しするつもりで考えている旨を申し入れたところ、熊二郎*3がおっしゃるには、「お考えのあれこれごもっともだと思いますが、元々7月中に大隅殿へも相談の上、御社(蔵)よりお差出しした件、千代吉・伝蔵そのほかの伺いの件もありましたゆえ、まず何となくお出し頂き、(その後)適切であるという事になり、年番も承知の上で3両金を送り、その後、藤四郎帰村の頃に、変死届け等も兼ねてあるということで、また3両金を送っています。今回も千代吉の件の伺いがまだ済んでいないので、やはり両様(丹下の帰職伺いと千代吉の件他)を兼ねて出府になっているので、また何となく御社蔵よりお出し頂くのも当然である旨を、先日の参会で相談し決まりましたので、(丹下から)お出し頂く必要はなく、なお、御社(蔵)よりの出金が不足しましたら、両所(大宮司家と当祢宜家)でもお助けするつもりです」とのこと。色々と相談し、「そうならば、ご意向に従おうと思います。もっとも、御社(蔵)よりの出金不足の際に、御両所へご負担いただくのは、大変申し訳ないので、私より差し出すつもりです。御遠慮なく仰って頂きたく、また桜山へまだ申し出ていないのですが、桜山へもこの件、私の考えをお伝えするべきでしょうか?」と申し上げたところ、「それはお考え次第かと思いますが、先に申し上げた通り、相談は決着しておりますので、その必要はないかと思います」と、熊二郎がおっしゃったので、「それならば、桜山へはただ、出府相談の件のみお願いし、費用の件は先方からお話が出たならば、お話します」と熊二郎と内談して退出した。
それから桜山へ参上して面談し、出府の相談等の件を申し入れたところ、「まだ、参会がないので決着はしておらず、費用の事も神野がおっしゃっていた通り、あらましはそのつもりであるが、今一つ判断できずに決めるのが難しく、もちろん両所からも200疋ずつは何度出府になったとしても、お助け致すつもりです」とおっしゃるので、「それでは大変申し訳ないので、御社(蔵)よりの御出金が不足しましたら、私より差し出しすつもりです」と話したところ、「確かに、状況次第ではお願いします」とお答えになった。両所の考えは少々相違がある。(後略)
(中略)
21日 曇り 九ッ時(正午)より降る
今朝、藤四郎祢宜へ書面を遣わした。昨日、費用の件に付き、内意(丹下が用意したお金を充てる件)を申し伝えていたが、昨夜、両所の考えも承知したので、その通り申し送った。もっとも、内々の事である。
一、作太夫を呼び、一昨日に坂戸から金子の話を聞いた件を承知し、なおまた一礼を申し伝えた。
一、作太夫が話すに坂戸は、船津に用があって居るので、金子の件について、作太夫達から人を遣わし、弥左衛門のところへ行く話になっているとのことで、弥左衛門方へ向けて、坂戸への書面を遣わした。右の金子の件について、少々話もしたいので、ちょっとこちらに来てくださいと申し遣わした。弥左衛門方に(坂戸は)まだ来ていなかったので、書面は頼み置いたとのことだ。
(中略)
23日 曇り 雨少々降る 夜大いに降る
今朝、作太夫方へ書面にて、坂戸へ金子を渡したのかと尋ねたところ、一昨夜間違いなくお渡ししたとの返事である。夕方、この件について、作太夫がやって来た。金子3両1分3朱が、西側の者にて準備できたので、このお金を残らず坂戸へ渡したという事だ。かつ麹屋与兵衛より頼まれたということで、今回の帰職伺いで費用が必要と聞いた与兵衛が見舞いとして、金50疋を持参したとのこと。もっとも、与兵衛が言うには、土地に関する件もあったので、作太夫まで申し出たようである。この件、本高のうち、国主*4脇の辺りを、同人が開発したというので、見舞金を持参したと察せられる。
一、桜山へ能右衛門を遣わした。「藤四郎出府の件は、ご相談はどのように決着しましたか?」と尋ね遣わしたところ、返事は「昨日同人(藤四郎)へ申し渡し、費用の件は、同人が承知している」旨を申し伝えてきた。これをうけ、直ちに藤四郎袮宜方へ、能右衛門を遣わしたところ、「只今出立のつもりです。(丹下のところへ)お立ち寄り申すべきところですが、取り急ぎですので、立ち寄り致しません。費用は昨日坂戸より金3両受け取りました。詳細は坂戸よりお聞きください」とのこと。これを聞いて、また能右衛門を藤四郎のところへ遣わし、是非、ちょっと立ち寄ってくださいと申し遣わした。
一、四ッ時(午前10時)、藤四郎祢宜が出がけに来た。面会して、参会の様子を聞いたところ、昨日の参会は藤四郎も出席。神野は体調不良で、社用人を呼んで、内々に入用金の件、この度は御社(蔵)より差し出すべきであると、申し付けられたという。桜山は出席して、年番へ伝えて相談したが、すぐには決着しなかった。それについて、桜山よりご相談があり、「日限帰村でも、先例では30日位の日延べは、宿から奉行所にお願いした例はあるので、今回はそのようにしても妥当であるが、それとも藤四郎方で費用の準備があるのか?」と言うので、藤四郎が答えたところには、「私は帰村願いをして帰ってきましたので、日限通りに出府しなくては、御奉行所の表に立てません。そしてまた、費用の件は私の方で工面とは思いもよらぬことですが、何しろこの度の件は、惣大行事殿にもお考えがあるのを承知していますので、どうにかして出府します」と断り、会所を引き取ったという。つまり、金子は坂戸より受け取ったので、まずはそれで出府する、との話である。昨日、私(丹下)から藤四郎へ内書で申し遣わした話とは、大きく違う話で、さらに日延べ等の件まで言われるとは、桜山のお考えはどういうことだろう、と藤四郎は話していた。これにより「一昨夜に桜山できちんと挨拶したのにこのあり様は、とても納得できない」と藤四郎へ話したところ、「あの人はいつもこのように変心の癖があるのだ」などと藤四郎が話していた。もっとも、桜山がおっしゃるには、両所にて、少々くらいはお助けするとのお話だった、と藤四郎が話した。藤四郎へ(帰職)伺いの件の詳細をお願いした。すぐさま出立して行った。
一、同タ、神野より書面が来た。「先夜お聞かせいただいた帰職願いの費用の件、昨日の参会は体調不良で出席できず。社用人を呼び、私の愚意を申し入れ、桜山と年番とが相談されたようですが、不参加が多く決着に至らず。しかし、藤四郎より貴家(惣大行事家)の御内意により、当分の費用をお差出になると申し出があったので、一同でこのように決着となりましたが、大変残念に思います。私が出席して、藤四郎へも内々に相談するべきところ、体調不良につきこのようになり、致し方ない次第でございます」と、丁寧に言って来られた。熟柿をたくさん子ども達へ贈っていただいた。お返事した内容は、「昨日参会の件について、詳細をお伺いし、承知致しました。先夜、内々に申し上げました費用の件、考えもありましたが、桜山へは申し出ず、ただお願い致しましたところ、貴所様(神野)がおっしゃった通り、桜山からも話がありました。そもそも私のお金の相談は、他に世話してくれるものがあり、その者から藤四郎へもお話していましたので、会所において藤四郎からも申し出たのだと思います。ただし、もとより今回は、私のところから差し出すつもりのお金でしたゆえ、決してご心配下されませんよう。もっともこの件に付きましては、少々込み入った事情もありますが、ご面会がなくては、申し上げにくいとご配慮の件、全て弁えております」と一礼を一緒に書き止め、加えて柿のお礼等を丁寧に申し遣わした。
(後略)
注釈
*1 坂戸一馬…坂戸祝(ほうり)。鹿島神宮の神官で藤四郎祢宜と同じ向座(高座)。坂戸神社の祝を兼ねたことから「坂戸」を氏としたが、本姓は「卜部」。山之上住。
*2 日限通り…藤四郎祢宜は寺社奉行に当月25日までの期限で鹿島への帰村の許可を得ていた。
*3 熊二郎…当祢宜家当主の東主膳の通称。
*4 国主…鹿嶋市宮中新町、鹿島神宮末社の国主社(くにぬししゃ)周辺の一区画。現在の鹿嶋市宮中8丁目の国主近隣公園のあたり。