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徳川家康感状兼誓文

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記事ID:0078519 更新日:2024年6月12日更新

 鹿島神宮の神官(大祝)であった松岡兵庫助則方は、塚原卜伝が起こした鹿島新當流の達人で、極意の「一之太刀」を徳川家康公に伝え、感状兼誓文を授かりました。当家に伝わる古文書を紹介します。

(解読:鹿嶋古文書学習会)

徳川家康感状兼誓文

古文書

徳川家康感状兼誓文

原文

徳川家康感状兼誓(原文)


新當流兵法無残所一之太刀
相傳感悦候 八幡御照覧
相交他流間敷候向後旁以
不可有疎略者也仍如件
  六月二日 家康 花押
  松岡兵庫助殿​

読み下し

家康感状兼誓文読み下し


新当流兵法残す所無く一之太刀
相伝 感悦候 八幡も御照覧
他流相交え間敷候 向後旁以
疎略有るべからざる者也 仍て件の如し
    六月二日 家康 花押
      松岡兵庫助殿​

現代語訳

新当流兵法、残す所なく「一之太刀」を
お伝え頂き、感激に堪えません。八幡様も御照覧あれ。
​他流と相交えることはございません(他流試合は致しません)。
​今後は全く(松岡を)疎略に扱うことは致しません。
よって件(くだん)の如(ごと)し。
  六月二日 家康 花押
  松岡兵庫助殿​

解説

 徳川家康公が鹿島新當流に関心を抱いたのは、二つの契機が考えられます。 一つは、家康公が鹿島神宮造営を思い立った前後。慶長8年(1603)、征夷大将軍に任命された家康公は、翌年鹿島神宮造営を命じます。6月に鹿島神宮造営が始まり、その年完成をみます。慶長10年(1605)、家康公は正式に鹿島神宮に本殿を奉納します。この社殿は現在の奥宮(重要文化財)として現存しています。
 2つ目は大久保彦左衛門の存在です。大久保彦左衛門忠教(1560~1639)は、徳川家康・秀忠・家光の3代将軍に仕え、「天下の御意見番」として知られています。神田錦町(現明治大学駿河台校舎近く) に住んでいましたが、鹿嶋にも300石の領地がありました*1。その彦左衛門が家康公に鹿島新當流の情報を伝えた可能性もあります。​
 鹿島新當流の秘伝の形は現在も鹿島新當流彰古会によって伝えられており、平成元年9月27日に無形文化財として茨城県指定文化財に指定されています。

 *1 大名諸家の家伝や系譜を収録した「寛政重修諸家譜」(寛政元年(1789)~文化3年(1806)編さん)に、大久保忠教について「(寛永)12年(1635)(三河国)額田郡の300石の地を常陸国鹿嶋郡のうちにうつさる。」と記載があります。

参考文献

『鹿島町史 第1巻』鹿島町史編さん委員会 昭和47年3月31日発行

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