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明石家文書「御年貢の事」

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記事ID:0060288 更新日:2022年6月8日更新

御年貢の事 

『明石家文書』より)

年貢の仕組み

 毎年村から地頭所に上納される年貢は田畑、屋敷地に課せられた本年貢(本途物成)と山役、釜役、船役と呼ばれる山での働きや製塩業、持船による稼ぎに課せられる雑税(小物成)がありましたが、その他農民の些少な所得にまで広く課せられていました。
 この内、年貢の主要なものである年貢米は米の収穫高(石高)に一定率を掛けて算出したもので俵詰めの上、地頭所の指示に従って出荷されていました。一方畑作物は現物又は金納、雑税はほとんどが金納でした。

​年貢に関する文書

 年貢米のもとになる石高は、検地によって一枚ずつの土地の収量を調査しそれを集計したもので通常の年の収穫量です。
 ところで異常気象などによって起こる凶作は、農業施設が不完全で農業技術が未熟だったせいもあって、この当時には度々発生しており、その都度農民は多大な労力を費やして年貢軽減の歎願を行っていました。
 この様に通常年では地頭役所から名主へその年の年貢上納指示書が出され村はその通り納めていましたが、凶作年には農民から年貢軽減の歎願書が出されていました。

 年貢に関して地頭役所と名主の間に交された文書は数多く残っていますが、ここでは次に紹介する四つの文書を選びました。年代順に並べましたので、時代の移り変わりも感じながら見ていきましょう。

目次

其の一:「元禄十二年卯御年貢目録」 明石村 元禄十二年(1699年)

この年に納めるべき年貢高を指示したもので、差出人と受取人の名前がありませんが地頭役所が名主に宛てたものです。この文書は年貢の算定過程が本年貢と雑税について丁寧に書かれており、また石高に対しての年貢米の割合が年貢取分として示されており参考となるものです。

其の二:「亥御年貢可納割付之事」 鹿嶋郡明石村 安永八年(1779年) 

 其の一の文書から八十年後に出されたもので同じ年貢の指示書ですが、ここに示されている本年貢の石高と反別(土地の面積)はこの時代の明石村の他の文書に共通するもので、その算定根拠はここに明白にされています。次の検見に関する文書にも用いられており注目しました。

其の三:「當辰御検見内見合附帳」 天明四年(1784年)  

 天明の飢饉が始まって二年目のこの年も天候不順で、秋の収穫前に凶作の兆候がはっきりしてきたため村が独自で検見を行いました。その結果はこの「内見合附帳」としてまとめられ代官所に提出されて、本検見要請の基礎資料として活用されました。

其の四:「差入申一札之事」 弘化二年(1845年)  

 小山村、角折村、清水村から明石村へ出された文書で、年が明けてもまだ年貢が納められずにいた清水村の一部の農民へ関係する村が働きかけたものです。同じ旗本の知行地内の村の対応を示す興味深いものですが、このようにすべての農民が決められた通りに年貢を納められていたわけではなく、村落共同体の仕組みの一端が垣間見えるものです。

避難所混雑状況