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明石家文書

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記事ID:0058355 更新日:2022年4月25日更新

明石家文書について

 明石家文書は、江戸時代に明石村(現:茨城県鹿嶋市明石地区)の名主を勤めた明石家に残る近世文書です。その数七千点余り。明石家の地引網経営や村方支配、貸借証文、年貢皆済目録、宗旨人別帳等、多岐に渡って記されています。

 明石村は鹿島灘の沿岸にあり、北は清水村。寛永10年(1633)の鹿島郡中高改帳によれば、寛永期頃には清水村の内に含まれ、旗本領でした。その後、元禄期(1688-1704)に独立し、元禄郷帳によれば、村高74石余。安政6年(1859)2月の大船津村組合高書上帳(糟谷家文書)には村高80石余とあり、旗本正木氏が支配していました。

 当地の明石家は江戸中期頃まで内野姓で、寛永16年(1639)頃から名主を度々勤めました。天明二年(1782)利右衛門が名主を勤めてから旗本正木氏の在地代官として活躍し、天保10年(1839)明石の賜姓を受け、同13年(1842)に給米15俵を与えられました。幕末に理得郎は明石・清水・小山・角折四カ村の割元名主を勤め、また守山藩の郷士として合カ米5俵を給付されました。明石家の経済的背景には、鹿島灘中部を中心とした地引網経営と干鰯・〆粕集荷があり、安永8年(1779)頃から始められたと推測される地引網経営は、村内の直営のみならず他村にも及びました。

 ここでは、明石家文書より、江戸時代の明石村の様子をご紹介します。

目次

参考文献 

鹿嶋市波野まちづくりセンター(波野公民館)『波野の寶(たから)』平成18年2月

きじ丸
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