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十五、平井村の娘の狐つきの話

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記事ID:0066596 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 平井村(現在の鹿嶋市平井地区)の農民の娘が、江戸から来たという狐に憑りつかれて別人のようになってしまった、という逸話が紹介されています。

 狐は江戸から鹿島神宮を参詣しようと、大船津の港へ船でやって来たと言います。江戸時代の大船津の様子は、北条時鄰の「鹿島志」の挿絵にも描かれています。鹿島詣の玄関口として賑わっている様子が伺えます。

 娘の家でさんざん飲み食いをした狐ですが、帰る際にお弁当まで準備させる姿がなんともユーモラスです。​

読み下し文

弘化年中のことなりしガ、本郡平井村の農某乃女尓、狐の憑たる阿り。春の頃の或日かの女、大舟津村へ機の糸を染るとて紺屋某方へ持行しガ、立帰りて与り何と無く立振舞常尓異なり、言葉つ可ひ江戸人の音聲尓なりしかば、父母を初め家族共等大きに驚き、如何致し候やと詰問するに、彼女答天、我は江戸下谷山下邊に住む狐なり。近頃妻を亡ひ、川れ〳〵の侭、風与鹿島の神宮へ参詣せんと思ひ立天、者る〳〵下りしガ、大舟津河岸尓て、一ノ鳥居を見天、忌中に参詣せんは恐れ多き事と初天心付當惑せしガ、是ま天下り天空しく帰府するも残念なり。兼天聞及びし此地は河海尓沿天、魚貝多しと。幸ひ此家娘、紺屋の店前尓うかと彳み居多る由ゑ、其躰を借りて海辺の宅は殊更都合よきまゝ来りしなり。何可鮮魚あらば早く調理し天、酒も下りの上ものを飲すべし。魚も江戸風尓調理春べし奈どゝ云ふ。言葉つ可ひ常の田舎訛りは、いづ方へ可失せ天、食物酒の好み奈ど尓、家族驚怖し、先づ取敢須酒肴を出して餐し介るに、調理方も酒もよろしから須、翌日は角せよ兎せよと、指揮するさ満、中々田舎娘の知る所尓阿ら須。平目の指身に山葵の醤油ガよし。鯛は頬肉、眼、唇の肉奈どを潮煮にせよ。酒も地酒は飲めぬ、早く外より取よせ与奈どゝ、例の江戸言葉尓天、種々の好みを言ひ立る由ゑ、諸人皆恐愕せざる無し。翌日は好ミの酒肴を 酒は宮中日野屋にて土浦の上酒を買て出せしとか。出し、両親等も丁寧に餐して速に立去るべしと懇々説諭せしに、娘の云ふ、我も無據暫時止宿は為せども、斯る淋しく、むさくろ志き所尓は止るとも永く泊累べきや、鮮魚を飽まで食せば近日尓立去るなり。夫よりも酒の相手を出須べしと能こと由ゑ、同村の若者ども興阿ることに思ひ天、代り〳〵出て酒飲ミ遊び介れば、娘大きに悦ひ天、流行の端歌など唄ふに、常尓ハ少しも知らぬ節づけなど、清らか尓う多ひしとぞ。又酒量も強く、数人と終日飲ども酔多る躰も無く、後尓は狐拳などうつ尓、一人も勝もの無く、相手の出す手を早く了知して勝こと実尓驚く者可り奈りと。時尓同村の里正某も聞傳天、其翌日来り天酒飲ミ、藤八拳をうち、又狐拳もう川尓、一度も勝を得ること能ハ須。赤面して迯去りしよし。 其後三四日過天も立去らさる由ゑ、其父母より神野物忌家司某兼へ依頼して祈祷を初め、追々議論尓及びしガ娘は更尓恐れず。去ども最早此家尓も倦たれば翌日立去るべし。夫尓付てハ小豆飯を焚き、鰯の油揚げ添、藁包尓志て未明尓宮中奈る海邊の社の側奈る大松の枝乃高から須低からぬ程能処、犬などの取ること能ざる枝尓掛け置べし。夫を翌日の昼弁當尓し天、旅行る也と云ふ尓任せ、其通りに為し置介るが、夜明て後、娘は一間より立出天、戸口まで出ると見えしガ、其侭尓其処尓、倒れ天気絶せり。家族共助けて床褥の上尓臥させ介るに其侭眠りて、又夜中起直り天、従前の如き由ゑ、家族共うち驚きて其故を尋るれバ、娘の答る様ハ、今朝ハ約束通り立去りしかども、知る如く俄の大風吹起り天、大舟津の渡船は浪尓由られ、眼もくらむ者可里由ゑ、我如き江戸ものゝ、馴れぬ船にハ乗ること能ハ須、無余儀再度立帰りし也。風さへ凪たらん尓は、明朝ハ立退く遍き故、又々乍手数、弁當は今朝の如く、取計ひ頼む也と云ふ侭尓、暁より家族共は起出天見るに、其日は風も穏尓奈り介れバ、弁當も昨日通り、取計ひ置しガ、夜明天後尓娘は昨日の如く立出しガ、又倒れ天人事を知ら須。家族ども例の如く臥させしガ、第三日迄熟睡して其後初て夢の覺たる如く、常躰にハ成りし可ど余程放心したり。数日を経て全快せりと。又魅せられし時のことは少しも覺須、言語起居も、素の田舎娘と成りたるよし。

現代語訳

 弘化(1844年~1848年)の頃、本郡平井村(現在の鹿嶋市平井地区)の農民何がしの娘に、狐がとりついた事があった。春の頃のある日、その娘は大船津村(現在の鹿嶋市大船津地区)へ機(はた)の糸を染めると言って紺屋(染物屋)の何がしのところへ持って行ったが、帰ってきてからというもの、なんとなく立ち居振る舞いがいつもと異なり、言葉遣いも江戸の人のような発音になったので、父母をはじめ家族は大いに驚いて、「どうしたのだ?」と問い詰めると、彼女は答えて、「私は江戸の下谷山下(現在の台東区上野)あたりに住む狐である。近頃妻を亡くして、手持無沙汰だったので、ふと鹿島神宮へ参詣しようと思い立ち、はるばる下ってきたが、大船津の港にて、一の鳥居を見て、忌中に参詣するのは恐れ多い事であると初めて気づいて、当惑した。しかし、ここまで下ってきたのにむなしく帰るのも残念だ。かねてから、この地は川と海に沿っていて魚介が多いと聞いている。幸い、この家の娘が、紺屋の前で無防備に佇んでいたので、その身体を借りて海辺の家ならさらに都合がいいとやって来たのだ。何か鮮魚があれば早く調理して、酒も下り酒*1の上物を用意せよ。魚も江戸風に調理するのだ」などと言う。

 言葉遣いの田舎なまりはどこかへ消え失せ、食べ物酒の好みなどに家族は恐怖し、まずとりあえず酒と肴を出して食事をさせたが、「調理法も酒もよくない。翌日はこのようにせよ。」とああせよこうせよと指揮する様は、なかなか田舎娘が知るものではない。「平目の刺身にはわさび醤油がよい。鯛は頬肉、目、唇などを潮煮(うしお汁)にせよ。酒も地酒は飲めぬ。早く他から取り寄せよ。」などと、例の江戸言葉で様々な好みを言い立てるので、驚愕しない者はなかった。

 翌日は好みの酒と肴―宮中(現在の鹿嶋市宮中地区)の日野屋で土浦の上酒を買って出したとか―を出して、両親も丁寧にもてなして「速やかに立ち去って下さい」と懇々と説得したが、娘が言うには「私もやむを得ずしばらく泊っているが、このように寂しくむさくるしいところに長く泊まるべきであろうか。鮮魚を飽きるまで食べたら近日中に立ち去る。それよりも酒の相手を出せ。」ということだったので、平井村の若者たちならお相手できようで思って、代わる代わる出して酒を飲み遊んでいると、娘は多いに悦んで、流行りの端歌などを唄うが、普段は少しも知らない節を付けて、清らかに歌った。また、酒にも強く、数人と終日飲んでも酔った様子もなく、そのあとに狐拳*2をやっても、一人も勝てるものがおらず、相手の出す手を早く察知して勝つことは実に驚くばかりであるという。時に、同村の名主何がしも聞き及んで、その翌日やってきて酒を飲み、藤八拳(とうはちけん)*3を打ち、狐拳も打ったが、一度も勝つことができなかった。赤面して逃げ去った。

 その後、三、四日過ぎても立ち去らないので、その父母より神野(現在の鹿嶋市神野地区)の物忌家の何がしに依頼して祈祷をはじめ、次第に議論になったが、少しも娘は恐れなかった。それでも、「もはやこの家も飽きたので翌日立ち去ろう。それについては、小豆飯を炊いて、鰯の油揚げを添えて、藁に包んで未明に宮中にある海邊の社(うべのやしろ)*4のそばの大松の枝の高すぎず低すぎない程のところ、犬などが取れない枝にかけて置くように。それを翌日の昼の弁当にして、旅立っていく。」と言うので、その通りにして弁当をかけて置いたが、夜が明けて後、娘は部屋から立ち上がって、戸口まで出るように見えたが、そのままそこに倒れて気絶してしまった。

 家族たちが助けて布団の上に寝かせると、そのまま眠って、また夜中に起きたが、今まで通りだったので、家族は驚いてその理由を尋ねると、娘が答えるには、「今朝は約束通り立ち去ったが、知っての通り急に大風が吹き起こって、大船津の渡船は波に揺られ、目もくらむばかりだったので、私のような江戸者が、慣れぬ船に乗っている事が出来ず、仕方なく再度戻ってきたのだ。風さえ収まれば、明朝立ち退こうと思うので、またまた手数をかけるが、弁当は今朝のように取り計らいを頼む」というので、夜明け前から家族は起きてみると、その日は風も穏やかだったので、弁当も昨日通り取り計らって置いてきたところ、夜が明けると娘は昨日のように立ち上がって出て行ったが、また倒れて意識を失った。

 家族たちが例によって寝かせると、三日間熟睡してそのあと初めて夢から覚めたように、平常に戻ったがずいぶん放心していた。数日を経て全快したという。また、狐に憑りつかれていた時のことは少しも覚えておらず、言葉や立ち居振る舞いも元の田舎娘になったという。

*1 伊丹や灘など上方で作られて江戸に運ばれた酒。
*2 じゃんけんに似た、指や手を使って勝敗を争う遊戯。
*3 狐拳の一種。
*4 海辺社(うべのやしろ)は鹿嶋市神野に今も残っている。

避難所混雑状況