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十四、樺太地方に鹿島神宮建設と御霊代送り

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記事ID:0066595 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 樺太地方のヲハコタンという町に鹿島の神を祀った祠があり、安政初年(1854)年に外国奉行下役の河津三郎の希望により鹿島神宮より御霊代(みたましろ)を送ったと記録されています。

 遠い樺太の地でも鹿島の神様が信仰されていたことがわかります。​

読み下し文

樺太地方ヨリ楠溪ヘ出ル途中のヲハコタンと云處ニ安政ノ初年、幕府ノ吏、堀織部正ガ巡視シテ、營マレシ鹿島ノ神祠アリ。
安政初年、外国奉行下役河津三郎来り天、樺太へ鹿島神宮勧請致尓付、御靈代を戴度よし願出らる。仍而則瓊君、より御靈代を送られ候。​

現代語訳

 樺太地方より楠溪(くしゅんこたん)*1へ出る途中のヲハコタン*2というところに、安政の初年(1854年)、幕府の官吏、堀織部正(ほりおりべしょう)*3が巡視した際に、鹿島の神を祀った祠があった。

 安政初年、外国奉行下役の河津三郎*4がやってきて、樺太に鹿島神宮を勧請(かんじょう)*5致したいので、御霊代(みたましろ)*6を頂きたい旨を願い出られた。よって、則瓊(のりより)君*7が、御霊代をお送りになった。

*1 久春古丹(くしゅんこたん)は、江戸時代から明治初期にかけて使われていた樺太の地名。樺太南部に位置する港町。
*2 当時の樺太の白縫村(しらぬいむら)箱田地区。
*3 幕末の幕臣、堀利煕(ほりとしひろ)のこと。樺太・蝦夷地の巡回を行い、のちに外国奉行として外交に当たった。
*4 幕末の旗本、河津祐邦(かわづすけくに)のこと。函館奉行として蝦夷地の調査のほか、外国奉行、勘定奉行ほか重職を歴任した。
*5 神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること。
*6 神霊の代わりとして祭るもの。御神体。
*7 著者鹿島則孝の前の大宮司。

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