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中世の呪術
中世は多くの仏教の宗派が生まれました。一方で神道も神仏習合に依拠し、体系化されていきました。近年の発掘調査からも、中世にも様々な呪術が行われていたことが明らかになっています。
呪符木簡―じゅふもっかん―
鹿嶋市の北浦湖岸の低湿地では、豊郷地区、宮中地区、鉢形地区で昭和58年~平成4年の間に発掘調査が実施され、条里制による地割が確認されています。この条里遺跡の水田から見つかった中世の木簡には、「急々如律令」「蘇民将来子孫也」と書かれていました。
「急々如律令」 急げ急げ律令の如く
つまり、「法令に従って早くに実行せよ。」という意味で、この文句は元々中国で漢の時代に公文書の書き止めに使われていたとされます。それが日本に伝わり、なぜか呪術に用いられていました。早くな法令の実行と同様に、早くに魔物や災難が去ることと、併せて福徳が招来することをも願って記したものと思われます。
「蘇民将来子孫也」
蘇民将来とは、『備後国風土記』に出てくる伝説上の人物です。
「武塔神という北国に住む神が、妻となる女性を探しに南へ赴くと途中で日が暮れてしまった。そこで蘇民将来と巨旦将来の兄弟に一夜の宿を求めると、裕福な弟巨旦は断り、貧乏な蘇民は歓迎した。武塔神は、帰路に巨旦の家に寄り、巨旦の家で働く蘇民の娘に「蘇民将来子孫也」と書かれた木簡と茅の輪を与え、この娘を残して巨旦将来の一族を滅ぼした。」
つまりこの木簡を身に着けたり家屋の入り口に付けることで自分は蘇民将来の子孫なので武塔神が起こしたような仕打ち(災い)から免れることができるようにと願ったものです。この伝説は、各地の神社での6月の「夏越の祓」で設置される “ 茅の輪くぐり ” の由来譚ともなっています。
「急々如律令」「蘇民将来子孫也」の呪符木簡がなぜ水田から見つかったのかは不明ですが、稲の病害虫除けや豊作祈願であったとも考えられます。小さな木片にこめられた当時の人々の願いを垣間見ることができます。
―鹿島城跡から出土した輪宝土版と絵皿―
中世の城跡である鹿島城からは、昭和59年の発掘調査で、呪術に使用されたとみられる土版と絵皿が出土しています。
輪宝土版(りんぽうどばん)
堀跡から出土した土版は、輪宝が浮き彫りされており、制作年代は15~16世紀、地鎮祭に使われた祭祀道具だと考えられています。
輪宝とは、古代インドの理想の国王とされた転輪聖王の七宝の一つで、車輪形をした密教法具です。王様の遊行(ゆぎょう:説法をしてまわる)の時には、回転して敵を成敗したと言われています。
絵画墨書土器(かいがぼくしょどき)
灰や煤を多量に含んだ土の中から出土した絵皿(絵画墨書土器)は、直径約10cmで、形状から「明かりを灯す皿」であったと考えられます。
「中央に蛇(?)を、それを囲むように鶴・亀・松・竹など慶賀を象徴する動植物が配されている。これらの点から、たとえこの土器が灯明皿として使用されたとしても、何らか儀礼のための火を灯すことに使われたとみられる。」(『鹿島中世回廊―古文書にたどる頼朝から家康への時代―』より)
参考文献
『鹿島中世回廊―古文書にたどる頼朝から家康への時代―』
『図説鹿嶋の歴史 中世近世編』
『どきどきセンター展示解説シート10』