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「奈良毛」地名の由来と歴史
奈良毛(ならげ)の地名の由来
大字奈良毛の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』には、「奈良は均し場(平均)のことで、毛は稲毛(収穫高)を意味すると考えられる。中世からの地名であることから、郡内の地頭職を兼ねた鹿島氏が、領内の収穫高を見るための水田地としてこの地を充て、平均値を求めたのではないかと思われるが確証はない」と考察されています。
奈良毛の歴史
『常陸国鹿島郡惣郷高目録記録(鹿島惣大行事家文書)』に、
「一、高百八十石七斗六升三合 同(はや)奈良毛村」
とあります。「はや」は、鹿島氏の一族で林に城館を構えた林氏の支配地であることを示すもので、中世は林村・志崎村・青塚荒地村(現在の青塚・荒井)・角折村と共に林氏の領分でした。
江戸時代は旗本長谷川氏の知行地で、石高は179石1斗2升でした。
奈良毛には、草分けと称する八人統がありました。この八人統は、鎮守社雙宮(そうのみや)神社の祭礼に、7度の迎えを受けなければ出座しないというほどの格式を持っていたといいます。一時、集落は新旧2派に分かれ、新たに鎮守社を祀るという騒ぎが起きたこともあると伝えられます。雙宮神社南の県道沿いには、八人統が一畝ずつ分けたと伝えられる等分の水田があって、近年までそれらの家々で苗代田として使用していたといいます(『大野の文化 第二集 口承伝説史談等』より)。
また、「入野(大字田野辺地内)」から6軒が移住してきたという伝承もあります。入野から移住した長岡氏は、鹿島氏の家臣といわれ、鹿島城落城後水戸へ出て医師を生業としていましたが、その後、奈良毛の地に来たと伝えられます。
生産と流通
農業
稲作が中心の農業形態で、谷津田と台地下の集落、北浦湖岸の水田と微高地に形成された集落に大別され、山林は無く、畑もいわゆる屋敷畑程度でした。
漁業
漁業は、地先である北浦沿岸の淡水漁業であり、仕法も林や居合(中)など近隣の沿岸集落と大差ありませんでした。
加工業
明治末から大正・昭和初期にかけて、最も隆盛だったのは、筵(むしろ)・かます・縄などの藁(わら)製品の加工でした。もともと自家用にと「神奈川筵」と呼ばれた臼井藁の筵を織っていましたが、その商品としての需要と器具の発達とともに、農家の余業働きとしてより発展していきました。
かますは、わらむしろの縁を縫い合わせた袋で、化学肥料製造の発達とともに、その容器として多くの需要がありました。昭和10年代には、軍需物資の運送に大量に必要とされ、農家では、原材料としての稲藁が豊富なことから、副業として藁工品の製造・販売が盛んになりました。また、大正期にできた足踏みの縄ない機は、かます織りに使う細縄の製造を容易にしました。
明治期に2人で座って織っていた筵織機も、大正には一人用足踏み機が出来て作業効率が上がり、女性たちの夜仕事になっていきました。刈り入れ後の稲藁のほとんどを加工して販売するようになり、昭和11年には、旧中野村の工業生産の50%を占めました(『大野村史』より)。
水上交通
北浦沿岸の河岸には問屋があり、水上交通の要でした。近世中頃から盛んになり、後背地からの年貢米、干鰯、薪炭などを積み出し、郷河岸・個人河岸などが各集落に設けられました。
谷田川敏子氏の調査(『鹿島を中心とした交通と運輸(上巻)』に掲載)によれば、奈良毛の忠左右衛門河岸は、掘込式の船だまりを持ち、倉庫が3棟、待合所(蒸気船用)が1棟あり、高瀬舟から蒸気船が活躍した頃栄えたといいます。河岸の出入り口は8mで、24mほど入ると東西40m、南北24mの船だまりがあって、用壁はすべて岸壁で堅め、波浪による浸食を防止してありました。船だまりと用壁の間には、竹藪、雑木林などで防風帯が造られていました。
教育と文化
東福寺塾
明治30年(1897)、常陸太田の常照寺から転任した谷海和尚が開塾しました。禅学勉道に優れた大徳で、近隣の多くの子弟を教育しました。読み書き算盤を主な科目としました。
大正塾
小島泰山が、大洋村立梶山小学校を退職後、大正2年(1913)、蓮光寺門前に塾を開きました。開塾時、泰山は61歳でしたが、以後約20年間、郷村の青年を指導しました。歴史に明るく俳諧を好み、俳諧には同好の士が多く集まりました。
文化財と名所・史跡
蓮光寺
日月山と号し、大字奈良毛字花木(カボク)に所在。
三つ巴紋のついた山門をくぐると、左右に如意輪観音、馬頭観音、二十三夜尊などの石碑が建立されています。
本尊は阿弥陀如来立像で、座高96cmの寄木造りです。力強く表現されていることから鎌倉時代の作とされ、光背は、当初のものが失われて後補のものと言われています。阿弥陀如来立像は昭和47年(1972)に市指定文化財になっています。
本堂に安置されているの金剛力士像は、195cmの寄木造りで、安産子育ての仁王様として深く信仰されており、昭和47年(1972)に市指定文化財になっています。
伝承・伝説
奈良毛の愛宕信仰
奈良毛の高台に「愛宕(アタゴ)」という地名があります。昔、奈良毛に火災が起こったとき、愛宕の山から白馬に乗った鎧兜の武者が、一本歯の下駄で下りてきて、家事を消し大事に至らずに済んだという伝説があり、それ以来、奈良毛では白い馬は飼わないそうです。(『大野の文化 第二集 口承伝説史談等』より)
参考文献
大野村教育委員会『大野の文化 第二集 口承伝説史談等』昭和46年12月
大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日
鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日