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「荒井」地名の由来と歴史

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記事ID:0050006 更新日:2023年5月24日更新

荒井(あらい)の地名の由来

 『常陸国鹿島郡惣郷高目録記録』(鹿島惣大行事家文書)には「青塚荒地村」とあって、慶長以前、戦国、室町の世には青塚・荒井で1村を形成していたことを伺わせます。分村するにあたって、荒地村とするのを嫌い、水を表す井を加えて「荒井」としたのでないかと思われます。
 集落は、北浦側集落の蛭子村から移動してきた人々と、紀州~下総方面から漁民として移住してきた人々によって形成されたと伝えられています。
 慶長7年(1602)の検地帳では、東浜荒井村と記載され、高請け人は12名で、鎮守熊野神社祭礼時、前7軒、後5軒の12軒が奉仕したとあり、これらが初期の集落の形態と思われます。

荒井の歴史

 漁業と農業を主体とした生産形態を持ち、海岸では製塩や漁業が半ばを占めていました。他の海岸集落と同様に合間に農作業を行っており、漁業の中でも地曳き網漁の占める割合は高かったものでした。
 網元は、出頭安右衛門、荒井重次右衛門、出頭長右衛門の地曳きがありました(「大野の文化第四集」)。戦前までは集落の重要な産業で、戦後の澱粉工業同様、地域経済の中心を担っていました。
 元禄検地の石高は48石8斗7升と非常に少なく、この地に草分けとなる5軒がまず住みはじめ、のち12軒になったとする伝承も頷けます。
 水田は、海岸砂地の開墾であり、地味も悪く、畑も砂地の這い上がりが見られ、地味の良い土地は少なかったようです。明治時代以降開墾が進み、字中・東・後に畑が広がりました。
 山林も砂地等で生育は悪く木材や燃料、家屋用材は他村地内に頼る事も多かったようです。
 また、南北に延びる海岸線は、往来の道、流通の道として、また、干鰯の生産販路として、重要なものでした。北浦側河岸への道は、後道、谷津田道が往還とともに重要な道でした。
 昭和45年まで三等灯台があって、大字平井、大洋村汲上の灯台とともに、鹿島浦を航行する船舶の安全を担う道標となっていました。

教育

 明治8年(1875)に長永寺に小学校が設立されました。寺に教場が置かれ、後、大同村立大同東小学校となり、変遷を経て現在の場所に村立大同東小学校が作られました。
 また、明治~昭和にかけて荒井道太郎が明治時代漢学の私塾を開いた他、お針所は、出頭裁縫所が戦前~戦後まで続いていました。

小字の由来

「カマ下」製塩に関する小字。

「前・中・後」は地理的地名

この他、俗称として「イシナダ」「獅子堀(シシボリ)」がある。

「イシナダ」峰の上の砂利層が露出し抹草木の育たない事からの俗称か。

「獅子堀」村境の獅子除け土手の有った場所。

参考文献

 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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