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「田野辺」地名の由来と歴史
田野辺(たのべ)の地名の由来
田野辺の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によると、標高40mの台地上に形成された集落と台地をとりまく狭小な水田地帯(一農家平均耕作面積40~50アール)があることから、田の野辺にある集落、という理由で、田野辺と命名されたものであろう、とされています。
田野辺の歴史
かなり古い歴史のある地区で、田野辺貝塚・塩釜遺跡からは、縄文時代中期における大集落を形成していたことが確認されています。小字名が多いことも、歴史が古い集落であることを物語っています。字「遠ケ入」と「ダンゴ山」には製鉄の跡があります。
交通運輸から見ると、鹿島灘の塩や海産物は、沼尾神社や照明院周辺の字「原」を含む「古沼尾」から、塩釜神社を通り大字田野辺の集落を経て、通称「大門坂」や「高土坂」や「白幡坂」を通って湖岸まで運ばれ、そこから船で移出されました。中世は、周辺城館の屋敷町や交通の要所として発達しましたが、近世以降は谷津田や棚田などの水田と、台地上の畑作開墾と山林経営に依存する街道村として立地しました。
地名としては、地理的な地名が最も多く、次いで「宅地前・屋敷添え・元屋敷・宅地添・屋敷山」といった歴史的な地名が多く、鹿島神宮大祝職にあった松岡氏(字松岡屋敷に居住)の影響と、中世以降は、鹿島氏族林氏(沼尾氏・田野辺氏)の家臣団の存在を伺わせます。
「常陸国鹿島郡惣郷高目録記録」(『鹿島惣大行事家文書』)には、「一、高二百八十一石二斗九升七合 同(宮中で鹿島氏直領であることを示す)田野辺村」とあります。
生産と流通
畑はあっても田は少なく、小麦、麦、さつまいも、煙草、それに養蚕が、昭和30年代までの主な畑作物でした。さつまいもが全盛の頃は、米1俵の供出がさつまいも5俵で代替えできました。さつまいもの「仲買」は当時の金で10万円から20万円の現金を風呂敷に包んで持ち歩き、農家の現金収入源となりました。時には、その大金が風呂敷ごと紛失したという事件が起こって、集落中大騒ぎになったこともありました。
一般には低い農業所得でした。養蚕の繭を佐原まで持っていって、専門店で買ってもらい、その代金で肥料を購入して家へ運んできてから田植えが始まるという農家もあったほどでした。そのため田植えは遅くなり、6月末から7月上旬になってしまったこともありました。
また、桑畑の隣に煙草畑があると、煙草から出るニコチンが風に乗って桑の葉につき、その葉を食べた蚕が死んでしまうと言われ、桑畑は移動できないので、移動可能な煙草畑が移動して問題を処理するしかありませんでした。煙草畑の多くは、山林の新開拓地か海岸砂地にありました。
教育と文化
集落の菩提寺である地蔵院に、寺子屋的な教育の場が設けられたかとも推察されますが、記録としては残されていません。地蔵院は、塩釜山と号し、近世までは鹿嶋市宮中神宮寺の末寺でした。かつて火災にあったとき、ある村人が本尊を背負って逃れ、消失を免れたという逸話が残っています。
文化財と名所・史跡
埋蔵文化財としては、田野辺貝塚をはじめ、大沼遺跡(弥生時代)、遠ヶ入遺跡(製鉄跡)、田野辺B遺跡(奈良平安時代から江戸時代の集落跡)など11遺跡が包蔵地として登録されています。
塩釜神社
大字田野辺字塩釜に鎮座。創建不詳。塩土翁命を祀ります。
海岸と湖岸の中間点に位置します。社の南側の田谷沼は往時は北浦と繋がった入江になっており、塩類を搬出するための港があったことが窺えます。海岸の角折からも「塩つけ坂」を通って塩が運ばれたと伝わります。
当時は大集落があって塩釜神社が創建されたものと考えられます。周辺からは土師器を伴う集落跡が多く検出されています。
松岡屋敷
戦国時代末期、鹿島神宮の大祝(おおほおり)職であり、剣豪であった松岡兵庫助則方が居住していた屋敷があった場所で、現在も小字名として「松岡屋敷」が残ります。則方は、徳川家康に新当流一之太刀の極意を伝え、感状兼誓文を与えられました。
参考文献
鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日
鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日