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「青塚」地名の由来と歴史
青塚(あおつか)の地名の由来
飛び砂による砂山の発達と台地の地膨れが「塚」状にあちこちに見られ、その「塚」に青々と松や灌木が繁茂していた風情から、青塚と呼ばれるようになったと言われています。
それ程、昔は塚状の小山が多かったようです。海伝いに紀州から漁民が移住したという伝承が伝えられており、集落構成の三分の一を占める「大崎」姓は、和歌山県簑島市の集落字名と言われています。
青塚の歴史
漁業を主体とした生業形態から農業との兼業、農業主体へと移り、時代とともに二次産業へと変遷しました。
江戸時代は地引網を主とし、海岸は、生産加工、生業の場でした。浜は生活の中心を占め、昭和に入り納屋、粕炊場四ヶ所が戦後まで見られ、集落経済の中心を担っていました。
明治時代以降、山林の開墾が進み、かなりの部分が開墾されました。更に戦後の開墾が拍車をかけ、現在の畑地が誕生しました。
明治初年「天朝井戸」の開墾が始まり大字荒井・青塚・角折の二男・三男によって、集落が形成されていきました。
その後、畑地は食糧増産、甘藷の澱粉工業の盛期を迎えました。また、網屋や笠作り、天朝井戸地区の蓑作りが農閑期の重要な産業となりました。その他牛馬での運送を生業とした者もいました。
当時は、味噌、塩、酒、醤油は雑貨屋が一軒あり、反物も商い、集落の中で日常生活が間に合っていました。
教育
明治5年(1872)青塚の宝蔵寺(ほうぞうじ)に、荒井小学校の分教場として、大同第三尋常小学校が設置されました。その後、大正5年に大字荒井に大同東尋常小学校が開校されたことに伴い、大同第三尋常小学校は廃止され、青塚の子どもたちは大同東尋常高等小学校へ通うこととなりました。
また、明治時代末から大正時代にかけて信田宗太郎の信田塾という私塾がありました。
史跡
「天朝井戸(てんちょういど)」という井戸が大字内の天長井戸区に所在します。由来は、明治5年(1872)に茨城県令の人見寧という人が、鹿島神宮参拝の折り、道中水に困ったことから、旅人の難儀を思い、地元民に井戸を掘らせたことによって命名されました。現区名は「天朝」をはばかって「天長」に改めたとされています。
民俗
天長井戸地区には「鹿島事ぶれ」に由来すると言われる郷土芸能「みろく三番叟」が昭和50年代まで残っていました。五穀豊穣、家内安全、大漁祈願や新築等近郷近在の祝事に招かれて芸を披露したと言われていますが、現在は伝承されておらず、その子細は不明となってしまいました。
青塚の小字の由来
「字砂」砂の這い上がりの地形と地質が砂である場所。
「字縦・横」土地の割り方からの字名です。
「字峰」台地の斜面地で峰山を指します。
「ネヤシキ(根屋敷)」元屋敷の場所。
「タカボリ(高堀)・メエボリ(前堀)」集落南の坂道。
「タカギミチ(棚木道)」大字棚木へ続く道。
「オウガン(往還)」飯沼海道(江戸時代の幹線道路)付近。
「フカツボ(深坪)」深田のこと。
「キタバタケ(北畑)」集落北側の畑。
「コウシンツカ(庚申塚)」庚申塚のあった所。
「ミツタレ」水が湧き出る所。
「オオシミズイ」水が湧き出る所。