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「志崎」地名の由来と歴史
志崎(しざき)の地名の由来
「志崎」の地名は地形的なもので、北浦湖岸部に張り出した4つの崎からきているのではないかと考えられています。字北山・字狐崎・字止峰(ヤンボウ)と字塔ノ峰・字若清(ワカキヨ)で、塔ノ峰には「花蔵院(かぞういん)」という寺院がありました。
北山、狐崎などの志崎舘周辺の台地上に集落が密集し、分村である大小志崎との連絡路である通称「大志崎道」沿いには点在します。西は北浦に突出した台地で、東は二つの谷が深く湾入して、その間に多くの水田が展開しています。台地部分は、標高40m~30m、北浦湖岸部の水田地帯は標高2m~1mと高低差があります。航空図で見ると水田地帯に張り出した「崎」がよくわかります。
志崎の歴史
鎌倉時代の弘安太田文に「白鳥郷内中務四郎跡三十九丁二段少、二十七丁五段 志崎・武家村以下在之」とみえ、中世史料である『常陸国鹿島郡惣郷高目録記録』(鹿島惣大行事家文書)にも「志崎村」とあって、現在の大小志崎を含んでいます。当時は現在の大小志崎を含んで石高921石とされ、常陸大掾支流鹿島氏の分流林氏所領でした。
応安年間(1368~75)の海夫注文(香取文書)に「ぬま里の津 津か知行分」とあって、水運は津賀氏が支配していました。元亀年中(1570~72)日向左馬之介国春が大志崎の地に土着(日向寺家文書)し、海岸部に居住しました。
江戸時代中期ごろより旗本知行地となり、須田氏、天野氏、内田氏が知行しました。
生産と流通
志崎は、北浦湖岸の沖積地と鹿島台地にひらけた集落で、農業が主体で漁業を従とする生産形態でした。
農産物の多くは畑作によるものであることが窺われます。畑作としては、大麦・小麦・菜種・稗・粟・大豆などが主で、蔬菜類としては、大根・人参・牛蒡・瓜類・茄子・南瓜などで、蔬菜類のほとんどは自家用でした。
漁業は、集落の西側地先を範囲とする北浦沿岸での操業で、その形態は、他の沿岸集落と大差はありません。
分孫である大小志崎との連絡は「大志崎道(おおしざきみち)」、別名を「地曳道(じびきみち)」ともいわれ、干鰯である「赤鰯(あかいわし)」が博労馬によって運ばれ、郷江間(ごうえんま)(河岸)や個人河岸から積み出されました。
志崎には、沼里河岸・藤右衛門河岸がありました。
史跡
古墳時代中期から後期にかけての遺跡が、字狐崎・若清・清生に見られます。また、戦国時代の遺構として、字稲葉・稲葉内・小屋周辺に、城館「志崎舘」があり、三つの廓からなります。
天満神社
大字志崎字遠尾坪に鎮座します。志崎の鎮守である天満神社は、何時の頃か大小志崎の下浜に打ち上げられた菅原道真公の画像を神代として祀られました。境内には筆塚があって、近年まで学童たちが習字を奉納していました。
志崎の小字の由来
地理的・地質的な地名
崎・久保(窪地)、谷津、山野、小深町(深田)、ミカ町(浅田)など
増産に関する地名
割原(北・中・南があって、山林と畑地)、蒲田(カバタ・水田)、大賀町(大縄町で水田)など
信仰に関する地名
道祖神、第六天(大六天)、篝山(かがりやま。鎮守天満神社の初期鎮座地)、座主町、登谷頭(とやがしら。頭屋頭)等
昆虫に関する地名
ヤコ町(ヤゴ)、稲子田(イナゴ)
その他の地名
ハグリ…『江戸語の辞典』によれば「座銭のこと」とあり、中世に出現した集落内の「宮座」や「村座」に関連する地名かとも考えられます。