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「小山」地名の由来と歴史
小山(こやま)の地名の由来
大字小山の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によると、「海岸部の砂丘(高堀)が、小山のように形成されているところから命名されたもの」とあり、下記のように考察されています。
「その昔、台地の下、現在の国道51号線辺りまでは砂浜であったと思われ、自然現象によって、海岸線が次第に東に伸びて行き、現在の高堀は、当時砂嵐によって自然に造成された砂山ではないか。それが今となり、潮風に強い雑木が生い茂り、小さな山のように見えるのである。それは、荒野より南に小山、清水、さらに明石へと断片的に続く。この砂丘が、あたかも小高い小さな山のように見えるところから『小山』の地名が、生まれたのではないかと思うのである。」
小山の歴史
小山の地名には「入野田(イノダ)・入野畑(イノハタ)・入野釜(イノカマ)・入野田(イノダ)」の小字名・通称名があり、これは小山が現在の鹿嶋市田野辺の近くにあった「入野村」から移住してきたことを証するものであるといいます(『大野村史』より)。入野釜は入野集落の塩焚き場でした。入野集落は小山へ5軒、奈良毛へ6軒、その他へ8軒が移住してなくなったと伝えられています。
草分け伝承としては「井野分(いのわけ)五軒」といって「高田・小澤・小倉・野口・田島」の各氏で、峰の下の不動院付近(字東坪、字峰)に根屋敷と言われる住居跡が残ります。
小山には「不動滝」があって流れが海へと注いでいます。この流れは飲料水や水田の灌漑水にもなって、現在の集落は元はこの流れの周辺にあったようです。この不動滝の前後の峰上台地上にも小さい屋敷跡があり、土器の破片が見つかっているので、最も古い時代にはこの台地上に居住していたと考えられます。すなわち、集落は台地上から峰下へ、峰下から現在の海岸近くへと移動していったことが窺えます。
小山に何時の頃から人が住むようになったのかは明らかではありませんが、寛永10年(1633)10月に成立し、慶長7年(1602)の検地による村高を掲載した「鹿島郡中惣高帳」(『今村太兵衛家文書』)によれば、字荒野同様に清水村870石の中に含まれていました。
江戸時代中期以降は旗本知行地と一部が守山藩領でした。
生産と流通
小山は、東部が南北約700mの海岸線であり、海の幸に恵まれてはいましたが、鹿島灘は波が荒く、小規模な漁業と製塩しか成り立ちませんでした。また、浜田は約4町歩、畑6町歩が耕作されていて、半農半漁の集落でした。
水産及び水産加工業
小山集落の成因の一つであった製塩は、種々の製法がありますが、「いの場、いの釜」の通称名が示すように、広い砂浜に満潮時に海水を引き込み、干潮時に太陽熱で乾燥する作業を繰り返すことによって、塩分濃度の濃い砂を作り、それを集めて海水で漉し、釜で炊くことによって塩を作ったと考えられます。江戸時代末の文書によれば、地先の海岸を戸数で割り振って塩作りを行ったと記されています。
また、小沢恪一著『近世鹿島地方の漁村』(1976年)によると、鹿島灘では安永~天保期にかけて鰯の地引網漁が盛大に行われましたが、文政年間から幕末にかけて漸次衰退におもむきました。その理由は(1)鰯魚群の沿岸回遊の減少、(2)労働市場の拡大による漁夫労働力の欠乏、(3)経営資金の圧迫、(4)刺網、建網、コロ網などほかの漁業による妨害などが挙げられています。特に明治に入っては、中期に考案された改良揚繰網による鰯漁業の勃興は、旧来の地曳網漁業に大きな打撃となりました。
小山海岸においても昭和30年頃までは、二条の地曳網が操業していましたが、鹿島港の建設に伴う潮流の変化などもありついに姿を消しました。
製塩や鰯漁が盛んに行われていた頃は、獲れた魚を単に食料としてではなく、それまで農業生産を支えていた堆肥、厩肥に加えて、干鰯や〆粕の加工を行い、増産に一役買いました。鹿島浦一帯において、大量に生産された干鰯や〆粕は、仲買人の手を経て諸方へ出荷されるようになりました。輸送にあたっては、海路の危険性を避けて陸路を採用しました。馬の背によって5、6俵づつ「塚原道」や「鹿島道」を経て、それぞれ塚原五右衛門河岸(現在の沼尾)や大船津河岸へ運び、高瀬舟に積んで潮来を通過し、利根川を遡って江戸川を下り、江戸に至る水路が利用されました。
農業及び農産加工業
昭和30年代、国道51号線沿いに澱粉工場が操業し、水質が良好であった「不動の滝」を利用し、かなり良質な澱粉が生産されていました。また、昭和20年代後半まで、養蚕業を営む農家があり、生産された繭を佐原市(現在の千葉県香取市)まで運びました。
昭和30年代頃まで、各家庭には農耕用の馬や牛が飼われていて、年に1、2回の爪切りが行われていました。集落に装蹄師がいて、牛馬の爪を切り揃えてくれます。爪を切らずに使うと、姿勢が悪くなり力も出なくなって、やがては爪の病気に罹ってしまうので、農家にとっては気の抜けないことでした。
教育と文化
学校教育
明治10年(1877)、大字荒野の龍蔵院が荒野小学校として、角折・荒野・小山・清水の4カ村により共同設置され、中野尋常小学校の分教場を経て、明治25年(1892)に独立して中野第二小学校となりました。龍蔵院を3教室に分け複式授業(異なる学年の児童を1学級に編成して行われる授業)を行っていましたが、義務教育が6年に延長になったのを受け、明治43年(1910)に4学級に増設され、1学級は小山の不動院に移されました。大正15年(昭和元年・1926)に新校舎が竣工するまで、両寺院が校舎として使用されました。のちに校名は中野東小学校となりました。
私塾
大正初期、上級学校に進学したのは、1名か2名くらいで、余程裕福な家庭の子弟でもなければ、いくら優れた子どもであっても学問は許されませんでした。しかも、近隣に学校施設はなく、交通も不便な時代で、鉾田農学校や水戸師範学校、千葉県佐原中学校へ下宿しながら勉学に励んだといいます。
その他の向学心に燃える若者達は、家業の手伝い、家事の合間、夜間または農閑期に私塾に通いました。小山には施設がなかったので、隣接する荒野の糸川塾や矢口塾に通いました。古老の話によれば、昭和10年前後、小沢広塾が小山に開設され、集落の青年を集めて、主として語学の教育に当たったといいます。
お針所
裁縫を指導するお針所は、集落内には2ヵ所しかなく、大半の子女は隣接する荒野・清水あるいは鹿島町宮中の裁縫所へ通っていました。小山では、野口せん裁縫所が農閑期に開所し、子女に縫物を教えていました。お針所の「お師匠様」と呼ばれる婦人は、その地の教養人であり、自宅の座敷を解放して、冬期から春にかけての農閑期に縫物や礼儀作法を教えました。お針子たちは、農繫期になるとお礼として、師匠宅の農作業を手伝ったりしました。
伝承・伝説
小山不動滝
小山不動尊堂の西に小さな谷間があり、小川が海へ流れています。その水源地に不動滝があり、昔から現在まで落水しています。高さは約3m程です。この水は目薬になるという事で、近隣諸方面から取水に来たと伝えられています。また、この近辺の谷に目が3つ歯が2本あって「ゲタゲタ」と笑う化け物が出たという話もあります(『大野村の文化 第11集 大野村の伝承』より)。
参考文献
小沢恪一『近世鹿島地方の漁村』昭和47年1月
大野村教育委員会『大野村の文化 第11集 大野村の伝承』昭和57年3月31日
大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日
鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
小沢恪一『むかしの村―現鹿嶋市小山を中心として― 改訂版』平成24年4月1日