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「荒野」地名の由来と歴史
荒野(こうや)の地名の由来
大字荒野の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によると、文字通りの荒れ野の意で、かつては鹿島浦沿岸の荒涼たる砂原でした。現在は海岸砂丘の下にも相当数の家がありますが、江戸時代には砂浜であって(明治初年には官有地)、僅かに地曳納屋、塩釜と苫倉(とばくら)がある程度でした。
荒野の歴史
字「堺田」上の浅間道沿いの畑から貝塚が発見され、土器やおよそ5戸の竪穴住居跡が見つかっています。さらに台地の愛宕神社境内(字「峯山」)に旧家の氏神(稲荷神社)、石碑などがあり、その周辺にも屋敷跡があるので、中世には台地上に集落が存在したと推定されています。塩焚きや地曳網の発展と共に次第に台地下に住居が移動し、今日の集落が形成されたと考えられます。
古文書では、『鹿島大宮司家文書』に残る応永23年(1416)の譲状に、荒野の地が大宮司家の知行地とされる記載があります。また、天正年間(1573~1591)の『吉川座主家文書』の「引米未進の覚」に「荒野治右衛門(こうやじうえもん)」の名が見えます。寛永10年(1633)10月に成立し、慶長7年(1602)の検地による村高を掲載した「鹿島郡中惣高帳」(『今村太兵衛家文書』)によれば、荒野は隣接する小山村と共に清水村870石の中に含まれていました。
集落の成立期に関わる伝承として、「荒野十八軒草分け」があって、「内田、大久保、大川、谷田川、遠峰、高田、小堤、堺田」の各氏と伝えられ、福寿院境内に、刻名の石碑があったと伝わります。江戸初期には名主役場はなく、元禄15年(1702)に水戸藩の支配藩である守山藩の松平大学頭の領地となり、以後明治維新まで続きました。元禄15年の石高は139石9斗6升9合でした。守山藩は奥州森山(現在の福島県郡山市)に陣屋を置く小藩で、幕末には涸沼近くの松川(現在の大洗町松川)に陣屋を置きました。鹿島郡はほとんどが江戸幕府の支配地で旗本の知行地であったので、荒野村は特殊な支配関係にありました。
江戸後期、鹿島浦に黒船が現われるようになり、荒野村の砂丘上には海防陣屋が作られました。この砂丘を古老は「陣屋堀」と呼んでいます。この陣屋は明治初年まで残っていて、あまり大きな建物ではなかったといいます。荒野氏の墓誌には、嘉永6年(1853)、藩主(守山藩)の海辺警備視察があり、郷士荒野純之助がこれに従っていることが記されていることから、この陣屋は守山藩の海防陣屋であり、水戸藩の助川海防城等と一連のものと考えられます。この頃農民は、武術を修練し、海防訓練を行ったと伝えられます。
参考:異国船の出現と幕末の海防-鹿島灘
天狗党の乱の時、潮来、鹿島方面に屯集していた浪士を討つため、幕府軍と棚倉藩の追討軍は鉾田から南下して荒野村へ陣しました。その時、小山守並内田権右衛門は陣屋警備の功をもって庄屋格を仰せつかっています。この「陣屋警備」は砂丘上にあった海防陣屋を指すものと思われ、天狗党の乱の際はこの陣屋は浪士の監視所になったといいます。
参考:天狗党-天狗の鹿嶋落ち
生産と流通
荒野は、漁業で発展した集落で、江戸時代から地引き網が盛んに行われました。内田儀左右衛門網、「大丸」の荒野精右衛門網等がありました。また、幕末には、品川御台場の築造に当たって、地曳船は土砂運搬用として江戸湾に回航され、その建築に使われたと伝えられます。
明治・大正・昭和にかけて、行商人の「棒手振り(ぼてふり)」や海産物加工・仲買人の「五十集屋(いさばや)」など、地域の特色を持つ経済活動が見られるようになりました。
海産物の加工品としては、肥料としての干鰯(ほしか)・〆粕、食料としての素乾の「田作」、塩乾の「ひらき」、煮乾の「煮干し」が主なものでした。
肥料としての干鰯は、鹿島浦沿岸の地引網操業とともに、網主や水主(かこ:水夫)たちによって、伝統的に行われていたもので、イワシの〆粕は、網主や加工業者が工場を建設して操業しました。
食料としての「田作」は、秋から冬に水揚げされた小イワシをそのまま「苫(とま。茅などを目の粗いむしろのように編んだもの)」の上に並べて、天日乾燥しました。正月用の食品として重宝され、高値で取引されたといわれ、網主や加工業者は「苫蔵(とばくら)」の中に、多量の苫を用意していたといいます。「ひらき」や「煮干し」は、ある程度の資本出費を伴うことから、主として加工業者によって操業されていました。
魚の行商人である「棒手振り」は、地引の一番荷が引き着くと、一斉にイワシを買い出しに走りました。男衆は、天秤棒に魚箱をさげ、女衆は「ボチ籠」に載せて担ぎ、行商に出かけました。海岸集落では唯一の現金収入、いわゆる日銭稼ぎであり、日用品などとの物々交換をする者も多くいました。
「姥貝万鍬」作りの名人「内田清次郎」
明治から大正にかけて、「姥貝万鍬(うばがいまんが)」作りで、鹿島浦随一の名人といわれた人に「清鍛冶屋」こと、内田清次郎がいました。「姥貝万鍬」はウバ貝(ホッキ貝とも呼ばれる)を取るための鍬(くわ)です(下図参照)。
清次郎は明治14年(1881)に荒野で生まれ、父は内田治郎右衛門の次男清太郎で、祖父の代から3代にわたる万鍬鍛冶屋でした。
父清太郎は、9歳の時に大洗の船道具屋に弟子入りし、年季が明けるまで、1回も家に帰ってこなかった気丈な人でした。やがて年季が明け、荒野の浜で鍛冶屋を開業しましたが、作るものは、主として船大工用の釘や漁具でした。明治初年、鹿島浦に多くの貝類が発生し、貝類を獲るための万鍬が必要になりましたが、清太郎はそれを作るのが苦手でした。たまたま、下総の「サンガ」という所から庄蔵という名人が来ていて、鹿島浦の漁師たちの依頼によって作ったものが大変評判でした。清太郎は、何とかして、その秘伝を学びたいと弟子入りし、3年間修業を続けました。その甲斐あって、庄蔵が下総に帰るときに秘伝を受け、鍛冶職の守り本尊掛け軸一巻を譲られました。
清次郎は、その父に従って修行し、大成して「万鍬作りの清鍛冶屋」として、鹿島浦で評判となりました。明治から大正にかけて、鹿島浦には周期的にハマグリ、ウバ貝(ホッキ貝)が大発生し、波打ち際には稚貝が足の踏み場もないほど繁殖したと言われています。万鍬の出来不出来が、収穫量に跳ね返ったので、性能の良い万鍬を求めて、北は柏熊(現在の鉾田市)から、南は奥野谷浜(現在の神栖市)まで、鹿島浦の万鍬を一手に引き受けるようになりました。
明治の中頃には、鹿島浦の漁師が北海道、樺太に多く移住し、そのほとんどが沿岸漁業に従事しました。当時、大漁にウバ貝を取るために、万鍬を必要としましたが、北海道方面の鍛冶屋では、思うようには作れず、清鍛冶屋の評判を伝え聞き、紋別・国後・樺太などからも注文が来ました。遠隔地なので、輸送が容易ではなく、馬馬車に積んで大船津河岸に降ろし、汽船で土浦へと送り、土浦から貨車によって、青森→稚内→大泊を経由して、樺太に送ったといいます。清次郎は、その頃の状況を「何せ遠方なので、電報で打ち合わせをしたが、輸送に何日もかかったため、漁期になっても先方に荷が届かず、詐欺だと訴えられたこともあった。荷は着いたが、製品が乾燥によってガタガタになり、苦情が来たこともあった。」と語っています*1。やがて、それらの問題も解決し、内地、外地の注文に応じるため、職人を数人雇って、昼夜製作にあたるようになりました。
明治末期から大正10年までは、特に鹿島浦一帯にウバ貝が繁殖し、未曾有の豊漁でした。
万鍬1台の値段は、庭渡しで20円くらいで、朝鮮から注文が来ることもありました。清次郎は明治40年(1907)に当時の鹿島郡役所から鍛冶職の職工鑑札を受けています。また、大正10年頃には、茨城・福島・宮城県の水産物品評会・漁具の部に万鍬を出品し「構造優秀にして堅緻である」と表彰を受けました。
注
*1 「大野村の文化 第4集 生産生業」(昭和49年 大野村教育委員会発行)より
教育と文化
私塾
矢口塾
矢口玄仲(やぐちげんちゅう)は、橋本正吉の次男として、天保4年(1833)泉川村(現鹿嶋市泉川)に生まれました。深芝村(現神栖市深芝)の臣谷貞顕の門人となった後、医学を志して荒野村の医師矢口俊育の門人となり、同氏の養子となりました。その後、潮来村(現潮来市潮来)の梅田栗斉の下で医学を修め、荒野村に帰って父祖の生業を継ぎました。天資、精錬剛直で、特に産婦人科の名医でした。医業のかたわら、家塾を開き、近隣の子弟を教育して敬慕されました。塾生は角折・荒野・小山から男女を問わず通学し、読み書きそろばんの他、礼儀作法も厳しく躾けられたといいます。筆子による頒徳碑があります。
糸川塾
明治末期から昭和初期にかけては、幕末の医師・糸川淳庵(じゅんあん)の子、省三が、地域住民の要望によって家塾を開き、小学校卒業後の子弟を教育しました。科目は漢字と習字でした。
お針所
明治から昭和初期にかけて、女子の教育はお針所によって行われました。荒野のお針所は遠峰与右衛門本宅、内田伝右衛門本家がありました。その他、内田政太郎家や堺田にもお針所がありました。
小学校の設立
明治10年(1877)、龍蔵院が荒野小学校として、角折・荒野・小山・清水の4カ村により共同設置され、中野尋常小学校の分教場を経て、明治25年(1892)に独立して中野第二小学校となりました。以来、大正15年(1926)までの45年間、教育と信仰の場として併用されました。初期の小学校は、おおむね集落内の菩提寺を以て教室とし、数カ村が合同運営しました。中野第二小学校は、のちに校名が中野東小学校となり現在に至ります。
文化財と名所・史跡
龍蔵院
海向山(かいこうざん)と号し、真言宗智山派。もとは鹿島宮中護国院末寺でした。大字荒野字前久保に所在。山門は明和年間(1768年頃)の建築とされ、昭和51年(1976)に市指定文化財となっています。この山門は、束・木鼻・台輪(そろばん玉形)等に特徴が見られ、構造は堅緻であって、禅宗様式の優れた建造物であるといわれています。
参考文献
大野村教育委員会『大野村の文化 第4集 生産生業』昭和49年3月30日
大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日
鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日