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異国船の出現と幕末の海防-鹿島灘
異国船の出没
江戸時代後期の文政年間になると鹿島灘沖にも異国船が現れるようになりました。文政7年(1824年)には、イギリス人が大津浜(北茨城市)に上陸する事件が起き、水戸藩はじめ近隣諸藩は海防体制を強化していくようになりました。
海岸の防衛
水戸藩第九代藩主徳川斉昭は、沿岸を巡視し、新たな海防のための施設を築き、農兵制度をとって海防訓練を行いました。天保7年(1836年)には水戸藩領の海岸線のほぼ中間にある助川(日立市助川)の海岸段丘に、助川海防城が築かれました。また、常陸国内の守山藩領である松川(大洗町松川)にも陣屋が築かれ、砲台が設置されました。松川陣屋は、松川から居切(神栖市居切)までの鹿島灘沿岸の防備を行いました。
天保15年(1844年)の守山藩から幕府へ出された報告書からは、鹿嶋市域の海岸でも異国船が遠沖に出没していたことがわかります。また、荒野村、平井村、国末村には大筒台場が一か所づつあったことが伺えます。
荒野の海岸砂丘には、地元の古老が「陣屋堀(じんやぼり)」と呼ぶ場所があり、農民が武術を修練し海防訓練を行った陣屋があったとも伝えられていますが、鹿島灘の海岸線は大きく変貌し、現在この陣屋や各大筒台場の位置の特定は困難になっています。
『守山藩史料』より引用(鹿嶋市域のみ抜粋) ※( )内は引用ではなく説明・意訳。
公辺御届向 守山藩海防手当
大志崎村
一、舟附之場所ヨリ松川陣屋迄六里半余(松川陣屋までの距離を報告しています。)
一、異国船舟漂着之儀前々ヨリ無御座候。(異国船が漂着したことは無い。)
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。(台場や見張台は無い。)
一、文政八乙酉年四月中異国舟一艘遠沖ニ相見申候。(異国船一艘が遠沖に確認されたことを報告しています。)
小志崎村
一、舟附之場所ヨリ松川陣屋迄六里半余
一、異国舟漂着之儀前々ヨリ無御座候。
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。
一、文政八乙酉年四月中異国舟一艘遠沖ニ相見申候。
武井釜村
一、右同断 (小志崎村におなじ)
津賀村
一、右同断 (小志崎村におなじ)
荒井村
一、右同断 (小志崎村におなじ)
青塚村
一、船付之場所ヨリ松川陣屋迄七里余
一、異国船漂着之儀前々ヨリ無御座候。
一、文政八乙酉年四月中異国舟一艘遠沖ニ相見申候。
角折村
一、船付之場所ヨリ松川陣屋迄七里拾六丁余
一、異国舟漂着之儀前々ヨリ無御座候。
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。
一、文政八乙酉年四月中異国舟一艘遠沖ニ相見申候。
荒野村
一、船付之場所ヨリ松川陣屋迄八里余
一、大筒台場 壱ケ所(大筒台場が一カ所あったことが記されています。)
一、見張番所 壱ケ所(見張台もあったようです。)
一、異国船漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
小山村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄九里余
一、異国船漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
清水村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄十里余
一、異国舟漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
明石村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄九里余
一、異国舟漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。
神向寺村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄十里余
一、異国舟漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
下津村
一、船附之場所ヨリ松川陣屋迄十里半余
一、異国船舟漂着之儀前々ヨリ無御座候。
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。
一、天保十二丑年四月中異国舟一艘遠沖ニ相見申候。
平井村
一、舟付之場所ヨリ松川陣屋迄十一里余
一、大筒台場 壱ケ所
一、文政六癸未年四月九日六七里沖ニ異国舟一艘相見申候。
粟生村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄十一里余
一、異国船漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
一、人数差出候台場遠見番所等無御座候。
国末村
一、船付之場ヨリ松川陣屋迄十一里廿町程
一、大筒台場 壱ケ所
一、異国船漂着且沖合ニ相見候儀無御座候。
泉川村
一、舟付之場ヨリ松川陣屋迄十二里余
一、異国船漂着且沖合ニ相見候儀無御座候
『守山藩史料 下』(昭和59年大洗町発行)より