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「明石」地名の由来と歴史
明石(あかし)の地名の由来
明石という集落名がいつ頃、どんな経緯により付けられたのかは定かではありません。明石は、鹿島神宮の「東の一の鳥居」のある集落です。この鳥居の内域が鹿島神宮の神域であり、氏子の住む所でもあります。
地名に関する辞典や書籍などを見ると、「明」は明神を意味し、「石」は「極」の当て字で「最も端」の意味であるとされています。このことから、「明石」は「鹿島神宮の神領の端」を意味しているのではないかとも考えられます。
明石の歴史
明石は水田干拓の可能地が少なく、湧水量も不十分であったために製塩と漁業が盛んな場所でした。安永4年(1775)には、53戸中21戸が製塩に従事していたとされています。
鰯地引網漁業は、元禄年間には、すでに行われていたと思われます。当時は、かなり小規模の片手廻しの網で、網船一艘、水主8~10名ほどで操業していました。享保期以後になると大型化し、20~30名ほどを要する規模になりました。天保末年には、網船等を除いた地引網等網具一式だけでも120両ほどかかり、鹿島灘の漁民にとっては、調達が困難を極めたようです。したがって、網主の経済基盤は、極めてもろく、地引網主としては、多数の漁夫を常時抱えておく態勢がとれませんでした。こうした状況の中で、自生的に成立した半漁・半農の浜方集落の者が、水主として就業する形をとっておろ、農間漁業的性格をより強く持っていました。地引網の網方勘定は、どの網でも大体同じで、総漁獲高から諸経費と網株取り分を天引きし、その残額を網主と水主で、定率分配するという建前をとっていました。不漁の年には、せいぜいこの天引き分の取り分に追われ、到底水主の配分取り分までまわりませんでした。このようなことから、鹿島灘漁村の村人が年貢未進金等の要用金を調達するため、土地の質入・売買以外に取った手段は、家族全員を各種奉公や日雇い等に出して、金を得ることでした。
江戸末期より盛んに操業されてきた地引き網漁も、昭和30年代に入って、衰退の一途をたどり、操業することは無くなりました。
教育
明治8年(1875)に放光院内に明石学舎(後の波野小学校)が設置されました。
東の一の鳥居
「東の一の鳥居」は、明石の海岸にあります。国道51号線の明石の信号から、まっすぐに海岸へ下りきったところに建立されています。
鹿島神宮前の大鳥居は、第二の鳥居であって、第一の鳥居は東西南北に建立されています。北の一の鳥居は2017年に神戸森(ごうどのもり)とよばれる森の中にある戸隠神社の境内に再建され、南の一の鳥居は息栖神社(神栖市息栖)前に、西の一の鳥居は大船津の河岸にあります。
明石の百庚申
明石の百庚申(ひゃくこうしん)は、明石台の峯山にあります。青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)の石仏(庚申様)10基と「庚申」の二字が刻まれた庚申塔90基、合計100基がコの字形に建立されています。百庚申は茨城県内ではほとんど例がない貴重なもので、平成30年4月1日に鹿嶋市の有形民俗文化財に指定されています。