ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 鹿嶋デジタル博物館 > 鹿嶋の旧町村(明石)

本文

鹿嶋の旧町村(明石)

印刷用ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示
記事ID:0050007 更新日:2021年3月29日更新

明石の地名の由来

明石という集落名がいつ頃、どんな経緯により付けられたのかは定かではありません。

明石は、鹿島神宮の「東の一の鳥居」のある集落です。この鳥居の内域が鹿島神宮の神域であり、氏子の住む所でもあります。

地名に関する辞典や書籍などを見ると、「明」は明神を意味し、「石」は「極」の当て字で「最も端」の意味であるとされています。このことから、「明石」は「鹿島神宮の神領の端」を意味しているのではないかとも考えられます。

明石の歴史

明石は水田干拓の可能地が少なく、湧水量も不十分であったために製塩と漁業が盛んな場所でした。

安永4年(1775)には、53戸中21戸が製塩に従事していたとされています。

鰯地引網漁業は、元禄年間には、すでに行われていたと思われます。当時は、かなり小規模の片手廻しの網で、網船一艘、水主8~10名ほどで操業していました。享保期以後になると大型化し、20~30名ほどを要する規模になりました。天保末年には、網船等を除いた地引網等網具一式だけでも120両ほどかかり、鹿島灘の漁民にとっては、調達が困難を極めたようです。

したがって、網主の経済基盤は、極めてもろく、地引網主としては、多数の漁夫を常時抱えておく態勢がとれませんでした。こうした状況の中で、自生的に成立した半漁・半農の浜方集落の者が、水主として就業する形をとっておろ、農間漁業的性格をより強く持っていました。

地引網の網方勘定は、どの網でも大体同じで、総漁獲高から諸経費と網株取り分を天引きし、その残額を網主と水主で、定率分配するという建前をとっていました。不漁の年には、せいぜいこの天引き分の取り分に追われ、到底水主の配分取り分までまわりませんでした。

このようなことから、鹿島灘漁村の村人が年貢未進金等の要用金を調達するため、土地の質入・売買以外に取った手段は、家族全員を各種奉公や日雇い等に出して、金を得ることでした。

江戸末期より盛んに操業されてきた地引き網漁も、昭和30年代に入って、衰退の一途をたどり、操業することは無くなりました。

教育

明治8年(1875)に放光院内に明石学舎(後の波野小学校)が設置されました。

東の一の鳥居

「東の一の鳥居」は、明石の海岸にあります。国道51号線の明石の信号から、まっすぐに海岸へ下りきったところに建立されています。

鹿島神宮前の大鳥居は、第二の鳥居であって、第一の鳥居は東西南北に建立されていました。神戸森にあった北の一の鳥居は今はもうありませんが、南の一の鳥居は息栖神社(神栖市息栖)前に、西の一の鳥居は大船津の河岸にあります。

避難所混雑状況