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「棚木」地名の由来と歴史
棚木(たなぎ)の地名の由来
大字棚木の地名の由来は、『大福寺観音縁起』に次のように伝わります。源平の合戦のおり壇ノ浦の戦いに敗れた平景清が、日向国宮崎に隠棲していました。娘の人丸(ひとまる)は、鎌倉よりはるばると父を尋ねて行きます。その時景清は盲目でしたが、親子対面の時、不思議に両眼が開いて、娘の顔を見ることができました。景清は、日頃信心している観音の霊験であると感銘し、仏師春日作の守り本尊、十一面観音像を人丸に渡し、常陸国鹿島郡白鳥庄椎木村(同縁起には景清ゆかりの地であることが記述)に行き、源平合戦の死者の霊を弔うように言います。旅を重ねた人丸は、椎木村に着いて木を結び棚を作り、観音像を安置し、ひたすら合戦の死者の菩提を弔いました。これが「棚木」の起源であるといいます。
集落は、北浦沿いの台地上と北浦縁の字椎木(しいき)の2つの小集落からなります。椎木の集落についての地名伝承は伝わっていないため不詳ですが、椎木の津として棚木より早く開けました。
棚木の歴史
棚木地区の南西部に位置する字平は谷津に突き出すように伸びる半島状台地にあり、その先端部から弥生時代末~古墳時代前半の遺跡が発見されています(平遺跡)。平遺跡では、旧大野村地区では数少ない弥生時代を主体とする集落跡が見られます。その他、棚木地区には縄文時代の棚木遺跡、古墳時代の出津遺跡もあります。
北浦湖岸の飛び地は棚木船溜が設置されていて、椎木湾の湾入部最奥を占め、古代「津」としての機能を備えていました。水田では、現在も条里制の名残を止める字「二才田・大町・牛町」等が見られます。
平安後期(12世紀)ころに、鹿島郡には「白鳥庄」がありましたが、『大福寺縁起』によると鎌倉時代に椎木村は白鳥庄の中に入っていました。江戸時代には旗本小沢氏の知行地でした。江戸時代の石高200石は明治初年まで変わりませんでした。
生産と流通
水田を主体とした生産形態を林業と漁業が補い、字椎木の水田地帯には古代の条里制が存在していました。畑地は、屋敷の間に見られ、明治時代から戦前にかけて字立原・大野・柴山等が開墾され、戦後までは山林管理のため「山番」も存在しました。
戦前戦後を通じ大きな開墾はなく、山林資源の活用によって、経済的に余裕のある集落でした。
また、明治時代から戦後にかけて養蚕が盛んになり、畑地はすべて桑畑の感がありましたが、甘藷、陸稲の栽培が盛んになり、字原山等の開墾が進む中で、一面の甘藷畑が続いた時期が見られました。一時は、煙草葉の栽培者も5軒程みられた。山林は、おおむね台地斜面部を用材・燃料または薪炭材とし、冬場の現金収入として活用していました。特に、炭焼きを冬場の専業とする農家が5軒程あって、昭和30年代まで冬期の副業として操業していました。
北浦岸の椎木湾は、絶好の湾入りがあり、船の停泊に適したため河岸が発達し、中河岸、後河岸、前河岸の三河岸があり、後背地からの米、薪炭、海産物の積み出しで江戸時代から昭和30年代頃まで繁栄が続きました。醤油の銚子、物資集散地の佐原・土浦方面への水上拠点の一つでした。
中河岸は経営者が変わり、大正初期頃に原田河岸となりましたが、同河岸の倉庫は間口9間奥行き4間の木造茅葺きの大倉庫で当時の繁栄を物語っています。この倉庫は江戸末期の建築で中央に1本の大丸柱を建てて屋根を支えた建築様式で、昭和50年代頃までは現存していました。
漁業は、椎木湾を控えていましたが、専業とする者はなく、兼業で4軒程が行っていました。
教育と文化
江戸時代の教育関係については不明です。
明治年間は、立原(和)の東医寺に大同第二小学校が開設されました。その後大字武井に大同村立大同西小学校(現在の鹿嶋市立大同西小学校)が開設されました。
文化財と名所・史跡
木造十一面観世音菩薩坐像
像高90cm、木造寄木造り。金箔。大福寺の本尊で室町時代の作とされます。記録によると、永享(1429~40)と元禄(1688~1703)の2回補修されています。昭和52年(1977)に茨城県指定文化財になっています。
(鹿嶋市郷土かるたより。)
高野槇
大福寺境内地に所在。目通り2.7m、根回り3.1m。鹿嶋市指定天然記念物です。
妙庫塚
大福寺境内地に所在。本堂の左側、寺墓地の中心に位置するこの塚は、平景清の娘人丸(後の妙庫比丘尼)を埋葬したものと伝わります。
棚木の一本松
「棚木」の地名の由来ともなった観音を安置した棚の杭にした松の木と伝わり、「棚木の大松」「景清の松」ともいわれ、現在は記念碑が建てられています。
参考文献
大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日
棚木・平遺跡調査会『茨城県鹿島郡大野村 棚木・平遺跡発掘調査報告書』平成11年10月
鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日