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「武井」地名の由来と歴史

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記事ID:0072086 更新日:2023年7月26日更新

武井(たけい)の地名の由来

 武井の地名の由来は、平安時代に成立した意義分類体の辞書である『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、「高家郷」との記載があります。また、奈良時代に「調」(税)として正倉院に納められた曝布(さらしぬの=麻布)にも、「高家郷」の名の記されたものが残っています。中世には、「武家村」(税所文書・茨城県史料中世一)とあります。これらから、高家が武井に転じたと考えられます。
 高家は、現存の字名には残っていませんが、台地上には「高内(タカウチ)」と言われる小字があり、縄文時代の貝塚・遺跡、古墳時代~奈良・平安時代の遺跡が残っています。

武井の歴史

 大字武井は、本郷の「武井」と河岸集落の「額賀」に大別されます。 
 武井は平安時代の「延喜式」に記された鹿島郡十八郷のうちの「高家郷」の本郷です。字高内付近には貝塚があって縄文中期(約4~5000年前)の住居跡と推定されています。甲頭(カブトウ)谷付近からはさらに古い縄文早期のものと思われる土器片が採取されています。
 上古は白鳥の里に属し、奈良平安時代の郷里制では高家郷となり、律令制度の崩壊後は白鳥庄に入りました。中世には中井氏の領地となり、武井城が築かれました。大野村史によると武井城は「古屋館」と「甲頭城」からなっており、字古屋(コヤ)には、内古屋、かじや跡、出し、入り等の地名が残ります。
 額賀の集落は、武井と津賀から移住して形成されたもので、左ヱ門他13名が、武井から移住したのが草分けと伝えられています。
 江戸時代の武井村は旗本知行地となり、寛永年間には植村氏・天野氏・土屋氏・倉橋氏の知行地の合計で868石5斗2升7合の石高でした。

武井の地図

生産と流通

 農業は水田耕作が主で、漁業・畑作・林業と続きます。水田は、北浦沿いの沖積地と石川に開かれた甲頭谷津、後谷津を中心に、江戸時代は1000石近い石高がありました。
 畑作は、養蚕や雑穀類が主体でした。戦後はサツマイモ、大麦、小麦に変わり、特に昭和30年代はサツマイモ一色でしたが、陸稲や養蚕も続いてました。その他、養豚や煙草の耕作などが始められました。
 北浦岸での漁業は、張網、大徳網、笹浸し、おだ漁など江戸時代以来の伝統的漁法と明治以降の漁法である帆引き網漁が操業され、特定の魚種を対象としました。白魚の刺し網、フナ・コイの掛け網等もありました。
 古来より額賀が漁業の中心で、帆引き網業を始めたのも額賀の大川忠治氏でした。戦前戦後を通じての漁業者は、武井では3軒、額賀では24軒が操業し、当時は大変盛んでしたが、築堤工事を境にして漁獲高は半減しました。
 河岸の経営は、江戸時代中・後期より始まり・干鰯や塩等の出荷が取扱量の大半を占めました。惣左衛門河岸・源兵衛河岸・角太夫河岸・伊兵衛河岸・茂兵衛河岸・成井河岸の6軒がありました。架橋や自動車の普及に伴い、河岸での流通は衰退しました。
 山林経営は、主に自家用の建築材や燃料でしたが、一部は薪炭として惣左衛門・源兵衛河岸から江戸や銚子方面に出荷されていました。
​ また、湖岸集落としては珍しい澱粉工場が2軒経営されていました。

教育と文化

 武井小学校創設当時は円勝寺、その後は大槻安右衛門宅、宮崎左衛門宅と移り変わって、武井山洞伝寺に落ち着き、学校としての体裁を整えていきました。明治22年大同村の成立により、大同尋常小学校となり、明治29年大同高等小学校に改編、尋常高等小学校から国民学校へと変遷し、戦後、大同西小学校として現在に至っています。
 私塾には手賀塾・池田塾・菅沼塾・文平塾の4つがありました。その他、裁縫所は、小畑さと、高内とし、大槻とみが、それぞれ自宅の一室を開放して開きました。

文化財

 大字武井字長堀に板碑があり、考古資料として鹿嶋市の指定文化財に指定されています。

伝承・伝説

 北浦湖岸の集落であるからか、水に関するものが多いです。

武井の水神様

 昔、石川の川岸に水神様を祀り、豊漁を祈願していましたが、不漁が多かったので占ったところ、場所が悪いというので、水神様を岡へ移して祀ったところ、以後豊漁が続いたと言われています。

橋掛の由来

 橋掛明神の祭神は、須佐之男命ですが、この橋掛のいわれについて、「昔、鹿島様がこの地をお通りになったとき、川を渡ることができなかったので、橋を架けてお通しした」という伝承が残っています。

家老橋

 昔、某家の家老が、往来の便を図るために橋を架けたと伝えられています。その功績により、橋掛明神に祀られたとも言われています。家老橋は、現在日光山下の県道に、わずかに名残をとどめています。

浪切り地蔵

 額賀は昔から漁業が盛んなところで、地蔵を厚く信仰していました。ある時、火災によって蔵福寺が消失しましたが、その地蔵様は焼けなかったといいます。漁民の間で、いっそう信仰が高まり、地蔵の功徳も益々あらたかとなって、以来、漁猟によって命を落とす者は、一人もいなかったといいます。北浦の流れは、銚子河口へと至りますが、大船津以南は「浪逆浦」といわれ、淡水と海水が混じり合って三角波が立ちます。そのため、水難事故が多かったので、浪切りや波乗りを冠する地蔵尊や不動尊が、北浦湖岸縁に点在し、水難を語り継ぐ伝承も一つ二つではありません。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日 

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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