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「津賀」地名の由来と歴史
津賀(つが)の地名の由来
大字津賀の地名の由来は、中世に津(港)として発展した集落であることから、「津」に慶字としての「賀」を加えたものと考えられます。また「塚」がなまったとも言われます。
応安年間(1368~75)の海夫注文(香取文書)に「かけさき津 津が知行分」とあります。字掛崎は対岸の行方郡とを結ぶ古くからの渡船場でした。と、同時に、津、河岸としての性格があったことが、地名の由来と考えられます。
津賀の歴史
塙地区の西方字重山、一本松の甲頭谷周辺からは縄文土器の破片が出土しており、また字五安・字荒句台からは多数の土師器が出土しています。
字志々山にある古墳群は、群集墳で長さ36.4m、後円部の高さ2.5m、前方部の高さ2.3mの前方後円墳を中心に規則的にその周囲に円墳が配置されています。字日光山の古墳群では、人骨3体が石棺の中から発見され、直刀、刀子などが副葬されていたといわれます(昭和12年)。
鎌倉時代には、鹿島氏旗下の津賀氏が支配していましたが、津賀氏の出自には不明な点が多く、一説には、土着の勢力であった津賀氏が、生き延びるため、常陸大掾氏一族の支配下に入ったとも言われています。大永6年(1526)、津賀大膳は、鹿島城の内紛から、鹿島氏の宿老で剣豪である松本備前守と高天原で戦ったと伝わります(参考:「戦国時代の鹿嶋」)。
その後の支配関係は、津賀氏から佐竹氏の一族東義久を経て、江戸時代は麻生藩領、旗本山中権四郎・村越権右衛門と守山藩領という複雑な支配関係が見られました。
寛永9年(1632)の石高は470石8斗でした。北浦沿岸の集落としては、石高が少ないことから、室町時代末期、津賀東浜(現在の大字浜津賀)に分村的形態を整えて行ったことは、面積的には大村にも関わらず、墾田開発の限界がもたらした経済的窮乏を、海岸部の沿岸漁業、塩田資源開発に求めたものと推察されます。
生産と流通
台地上と根道に集落が形成され、次第に海岸へと移動・移住し、鹿島浦には「津賀東浜」(現在の大字浜津賀)、北浦湖岸には「掛崎」の集落が水産資源を求めて形成され、台地上には、寺地、墓地、神社、屋敷跡が残されました。
鹿島浦での漁業はかなり活発に行われ、有力者も下浜へ下り、現在の慈眼寺周辺に移住しました。
北浦湖岸部では、漁業や津の経営に当たり、河岸や渡船場としての繁栄を見ました。「忠次衛門河岸・彦左衛門河岸」があり、海岸の五十集屋(魚問屋)や行商人が活躍しました。
明治4年に須賀田彦左衛門は、正式に県の許可を得て掛崎から対岸の行方郡大和村大字白浜(現行方市)への渡船場を開業し、昭和19年まで営業を続けていました。昭和19年には道路法によって村営とするべきところ、財政予算の関係で断念し、当時の大同村は彦左衛門の相続人の彦之充に経営を委任しました。当時の渡し賃は大人1人につき20銭でした。この渡船場は昭和40年代まで続きました。また、明治時代から昭和30年代ごろまでは、下浜の魚を行商する「棒手振」で賑わいを見せました。
教育と文化
学校教育は、明治時代初期から「武井小学校」(現大同西小学校)に通学しました。
私塾としては、大正年代に藤崎初太郎(孝宗)の「掛村学園」がありました。藤崎は茨城師範学校卒業後、教職につきましたが、さらに向学心に燃え日本大学高等師範部を卒業し、東京で教鞭をとります。しかし、第一次欧州大戦の際に、農村の子弟が大戦中の好景気に酔って鍬を捨てて東京に出るのを見て、農村青年教育の重要性を認識し、郷里に帰り、私塾を開いて多くの近郊の青少年を教育しました。
文化財と名所・史跡
津賀城跡
大字津賀字城山に所在。鎌倉時代中期より戦国時代末期頃の城館で津賀氏の居城でした。腰曲輪が巡り、土橋・虎口等の遺構を残しますが、長い年月の経過でかなりの部分が消滅してしまいました。平成5年に史跡「津賀城跡」として市の指定文化財となり、現在は公園として整備されています。
明星三体仏
大字津賀字須田山に所在。隆起砂岩層を刳り貫いて作られた石仏で、宵の明星・夜中の明星・明けの明星の三体が元和7年(1621)に建立されました。北浦を航行する船が安全を祈願したところと伝わります。
伝説・伝承
区内の字五安は医者の屋敷跡と伝え、近くにある小塚は、津賀氏が鷹狩りに使用した塚と言われています。
字染井は、室町時代頃か、染井宿があり天神様まで家並みが続き、天神様の縁日には戸板市が出て賑わったと言います。
通称殿山は、津賀氏の墓所と言われ、中間山は、中間(召使いの男)が住み「墓守」したと言われます。
津賀氏の領地は、東南は塙・小見まで、北は薬師久保・志々山・センゲン・一本松・石堂、西は天神・日光山と広く、娘を甲頭美濃守に嫁がせるときに、城下の水田から日光山を持参させたと語り継がれています。