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「浜津賀」地名の由来と歴史
浜津賀(はまつが)の地名の由来
大字浜津賀の地名の由来は、北浦側の台地集落「津賀村」からの分村、移住による集落形成によるものです。「大野村史」によれば古くは「津賀浜」と呼ばれていました。
慶長7年(1602)の検地帳では「津賀東浜」と表記され(横田家文書)、分村の途上にあったことを伺わせます。「浜」は、鹿島浦の分村形態の1つですが、特徴的なことは、当時津賀村にあった慈眼寺を海岸地区の人々が持ってきたことで、他の海岸集落の分村形態には見られないことです。このことからも移住した者と、残った者との力関係に差異が読み取れます。当時は津賀村を呼称していました。
浜津賀の歴史
浜津賀の上の台地字峰畑からは貝殻、土器が出土しています。この遺跡は浜津賀集落形以前に津賀から東浜に出てきた人々の住居跡と考えられ、古くから製塩や漁業のために若干の人々が移住してきたか、あるいは一時的の出稼ぎをしていた跡であろうと思われます。
浜津賀には武士の土着説が伝承されていますが、慶長7年(1602)津賀東浜御縄打水帳を見ると、屋敷所有者は、彌二郎、彌三郎、彌五郎、彦太郎、与三郎、源六良、四郎五郎、清右衛門、藤右衛門、新左衛門、新兵衛、左京、雅楽之丞、主水、玄蕃、孫三良等18軒がありました。この名から津賀村の当時の武士たちが東浜に移住してきたことが窺えます。
開村当時の屋敷は、台地裾の字「根屋敷」に構え、江戸時代中期頃に海岸砂地の発達や地引き網漁の最盛期に入り、集落は海岸部に移動していきました。その後、農業主体と飛砂の関係から3分の1程の人家が台地上へ移動していきました。一部以前の根屋敷に戻った家も見られます。
江戸時代には代々旗本岩瀬氏の知行地で、横田文書によれば、岩瀬市兵衛は角折村から大志崎村までの7カ村及び下総国豊田郷にも知行地がありました。
生産と流通
漁業と農業を主体とした生産業態を持ちますが、漁業が半ばを占め、合間に農作業を行うといった状況が続いていたことが窺われます。人口、戸数の割りに田畑は少ないです。
初期の網元は池田庄兵衛、池田主水で、明治時代に境田良平等の地引があり、その為に下総、上総方面から多数の水主(水夫)を雇いました(『大野村の文化』第四集)。
水田は少なく、元禄年間(1688~1703)頃の石高は約78石でした。現在の大野中学校裏の沼地を水田として利用していたと推察されますが、海岸部では掘り下げ水田が主であり、畑も飛び砂の這い上がりが見られ畑地には向かない為、中央部の沼周辺に地味の良い土を求め開墾が入ります。明治時代以降、砂地畑地の開墾が進み、字「大道西(ダイドウニシ)・峰畑(ミネハタ)」等が開墾され畑地として利用されました。
山林も重要な収入源で、木材、燃料、生産用具の用材に重要な役割を担い、冬場の現金収入となりました。戦後の澱粉産業の発展に伴い、山林は芋畑として開墾され、ほぼ現在の畑地が誕生しましたが、澱粉工場はありませんでした。
手工業としては、船大工が一軒ありました。
他の海岸集落同様「海岸」が生活の拠点として大きな比重を占め、北浦側の集落との交通面では、慈眼寺前の武井道、現停留所の前後の津賀道を利用し、北浦側との運輸、通信、交流が図られ、現在も名称は通称として使用されています。
教育と文化
明治5年(1872)の学制発布の後、隣村の荒井小学校(現在の大同東小学校)に組み込まれていきました。
文化的活動としては、東映系列の大野村最初の常設映画館が、昭和30年代に開館し、当時、数少ない大衆娯楽として、また小学校や中学校、青年団が利用し盛況を極めました。
文化財と名所・史跡
戸隠神社と神戸森
戸隠(とがくし)神社は大字浜津賀字南に鎮座します。長禄元年(1457)に信濃国戸隠神社の分霊を祀り、浜津賀の分村と共に鎮守しました。
この地は古の「神戸原(ごうどはら)」の一部の「神戸森(ごうどのもり)」と呼ばれ、飯沼海道(かしま道)が通っていて、鹿島神宮の北の一の鳥居がありました。北の一の鳥居は平成29年(2017)に再建されています。
六部塚
旧飯沼海道沿いの方形の塚で、頂部に六部回向の石碑が建立されています。
慈眼寺の両界曼荼羅
慈眼寺は大字浜津賀字北に所在します。慈眼寺に伝わる両界曼荼羅は、紙本着色の曼荼羅で、昭和52年(1977)に茨城県指定文化財になりました。曼荼羅は、完全無欠に全てを備えることを意味し、絵画では、多数の尊像を集合させて、その思想内容を表現しています。真言密教の宇宙観を現したもので、胎蔵界・金剛界の一対からなります。
「鹿嶋市郷土かるた」より。