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9.文久3年12月24日 江戸より吉報が届く

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記事ID:0070285 更新日:2023年3月22日更新

『惣大行事日記』より)

 惣大行事職への帰職伺いの結果を待ち続ける鹿島丹下は、12月24日の日記に「旅館のような床の間に富士山の掛軸を見る」という「吉夢」を見たと記しています。まさにその日、飛脚吾助の弟が吉報をもたらし、丹下は帰職が認められたことを知ります。正式には12月21日に寺社奉行松平摂津守から「御直に御許可」の沙汰がありました。吉報に妻おきぬは大喜び、見舞客が次々とやってきます。
 翌25日には会所に呼び出され、継上下の大宮司・当祢宜以下社用年番役人が揃い、惣大行事の復職披露会が催されます。27日には社中年番が交代となりますが、丹下は来年度の年番依頼を辞退し、神野当祢宜が三職の年番となります。
 こうして各方面での努力が実って帰職が実現し、文久3年は丹下の生涯中もっとも輝いた年になりました。​

原文

文久3年12月24日 江戸より吉報が届く [PDFファイル/209KB]

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読み下し文

  二十四日 晴 厳寒
昨夜吉夢あり。旅亭の様なる座敷にて床の間の軸物富士の画を取り下ろし見候ところ、何か賛の詞あり、不覚。
下生政太来たる。拝借の内意なり。 
一、暮六ッ半時飛脚五助弟、栄兵衛と申す者、中町の者なり、右江戸より只今下着の由にて来たる。五助より書面持参。当二十一日御奉行所よりこの方願い伺い筋の儀御沙汰に相成り、右に付き猿田由膳より立飛脚致すべきところ、幸い中町名主庄三郎儀帰村に付き、庄三郎方へ表向きの書面、猿田より差し下し、然るところこの節御関所殊の外難しく候間、庄三郎儀存じの外手間取りに付き計り難く、よって五助方より態々弟差し下し、吉左右申し送り候趣の書面なり。二十二日明六ッ時の認めとこれ有り。右五助弟へ直ちに面会致し、様子も承り候ところ、庄三郎儀は二十一日昼より出立の由なり。しかし道中滞りこれ有るべき由咄し申し候。右吉左右に付き家内大悦び。先ず能右衛門方、内々知らせ遣わし候ところ、能右衛門足痛の由にて、ばば早速来たる。中村屋庄助早速聞き付け見舞いに出で、有馬屋も早速来たる。
一、夜四ッ半頃、勘解由左衛門・伊右衛門・安左衛門等来たる。宮之助儀町方に居合わせ、勘解由左衛門より右吉事咄し候ところ、早速見舞いに出で候由にて、酒・肴持参なり。座敷にて面会。酒出し種々咄し、深更に罷り帰り候。

  二十五日 快晴
 神酒献ず。
一、下生政太方へ呼びに遣わし候ところ早速に来たる。内沙汰の趣申し聞かす。それに付き候ても、拝借の儀整え候様頼み候ところ、今朝伝神方へも参り咄し合い候つもりのところ、留守にて罷り帰り候由咄なり。
一、今早朝、神野伊右衛門来たる。五助より同人方へ書面これ有り、承知候由なり。五助弟、今早朝参り候と申す事(なり)。
一、稲荷惣助見舞いに来たる。
一、根三田勘解由左衛門・庄右衛門・太右衛門忰等来たる。
一、八ッ時頃中町名主庄三郎帰村の由故、早速人遣わし候ところ、只今参着に付き申し上ぐべしと存じ候由にて、猿田由膳よりの書面相届き候。帰職仰せ付けられ候に相違これ無く候。なおなお坂戸へも別紙遣わし申すべき儀に御座候えども、取り急ぎ候間、書面着致し候はば早々御沙汰下され候様、願い奉り候。以上。
一筆啓上仕り候。厳寒御座候ところ、御揃い成され御安泰御座成され賀し奉り候。然らば御願いの筋(の)儀、 一昨日二十日窺いに罷り出で候ところ、明後日伺いに出で候様仰せ聞けられ候間、帰宿仕り候ところ、昨二十一日朝御呼び出しにて、摂津守様御直に、社中願いの通り帰職仰せ付けられ、則ち別紙御渡しの書面相添え差し上げ候。御披見の上御安心下さるべく候。折りよく庄三郎帰村に付き、早速貴意 (を)得奉り候。御惣宮様へも宜しく仰せ上げられ下さるべく候。なお委細の儀は帰村の上咄さるべく候。右早々この如くに御座候。以上。恐々謹言。
 十二月二十二日 猿田由膳
      鹿島丹下様
一、宮之助来たる。右庄三郎帰村承り、帰職見舞いに出で候なり。酒肴持参なり。
一、大宮司より使い、正一郎来たる。只今在府藤四郎祢宜より書面到来。御帰職の儀申し来たり候間、先ず御内々御沙汰申し上げ候由ロ上なり。面会の上挨拶。忝き由申し遣わす。
一、同夜五ッ半時頃、会所より両所の書面到来。御達し申し候儀これ有り候間、只今会所迄御出で成さるべき由の書面なり。右使い御蔵番女房参り候由甚だ如何敷(いかがわし)く存じ、畢竟社用役人か代官番罷り出で候て然るべく存じ候ところ、右の次第故代官番呼びに遣し候ところ、善兵衛参り候間、右使い如何の訳にて蔵番女房持参候や承り候ところ、私ども存じ申さず、恐れ入り候由にて、それより立ち帰り又々同人罷り出で、会所御用提灯付け迎えに参り候間、直ぐ様支度致し、次上下にて善兵衛案内に致し会所へ罷り出で候。大宮司・ 当袮宜、その外年番にては行事袮宜・社僧広徳寺・社用香島左中・村田主殿等なり。先ず両所の前通りへ座し挨拶に及び候ところ、大宮司より御達し申しますと申され、切紙差し出され候。披見のところ、
 常州鹿島明神元大行事 鹿島丹下
右社中願之通惣大行事帰職申付一生者年頭御礼差出候儀、 難相相成候事
 亥年十二月
右の通りなり。披見終り候ところ、御席へ御進み成され候様大宮司申され候間、席へ着座。両所・年番へ一礼及び候。大宮司より、これよりは御同役の事幾久敷くなど丁寧に申され、その外早速政事(まつりごと)向きの談じもこれ有り。明後日年番引き渡し候儀、ならびに来年番この方にて相勤め然るべしなど申され候ところ、何れ追って御挨拶申すべしと申し、一同罷り立ち候

  二十六日 晴
今朝両所へ見舞い候。先ず桜山へ参り面会のところ、盃・吸物出る。さてこれ迄能々(よくよく)心配に預かり候段挨拶に及び候。なお又来年番の儀は自分儀久敷く中絶(致し)、勝手も分かり申さず候間、何分御両所へ御頼み申し度く宜敷く御申し合わせ御引き受け頼み入り候由申し入れ候ところ、右はごもっともに承知致し候間、何分東氏と相談の上、当年拙者勤め候事故、是非東氏へ御引き受け相成り候様然るべし、など申され、なお又この方職料の儀、年番にても十一月中迄は斟酌いたし外に除け置き候ところ、追々月廻り及び候に付き、遣い払いに差し出し候。この間中御願いの金十五両は、是非御頂戴に相成り候様取り計らい申すべし。なお又、その余も諸勘定いたし、余分もこれ有り候はば御取り持ち申し、少々にても御渡し申し候。手前心得に御座候由、至って親切らしく申され候。それより神野へ罷り出で候ところ同断。吸物・盃出、これ又年番引き受け候儀頼み、御礼出府等(の)儀相談(に)及び候。桜山へも御礼出府の儀、談(に)及び候ところ、この儀は□迄御急ぎにも及ぶ間敷く、何れ来春にて(も)宜しかるべし、など申され候。

(後略)

現代語訳

  24日 晴 厳寒
 昨夜、吉夢(縁起の良い夢)を見た。旅亭のような座敷で、床の間の軸物の富士の画を取り下ろして見たところ、何かを称賛する言葉があったが覚えていない。
 下生政太*1が来た。拝借(借金)の件は内意である(意向はあるがまだ決まっていない)。 
一、暮六ッ半時(午後7時)、飛脚吾助の弟で栄兵衛という者…仲町の者であるが、「江戸よりたった今到着した」とやって来た。吾助よりの書面を持参。今月21日御奉行所より、私の帰職願いの件、御沙汰があり、この件について猿田由膳(藤四郎祢宜)より飛脚を立てるべきところ、幸い仲町の名主庄三郎が帰村するというので、庄三郎方へ正式な書面を猿田から差し出したが、このごろ関所が一層厳しく、庄三郎は思いのほか手間取ってどれだけかかるか分からず、そこで吾助よりわざわざ弟を差し下して吉報を申し送りました、との書面である。22日明六ッ時(午前6時ごろ)に記したとあった。吾助弟へ直ちに面会し、様子も聞いたところ、庄三郎は21日昼に出立したという。しかし、道中に滞りがあると言っていた。吉報に家内は大喜び。まず能右衛門方へ内々に知らせを遣わしたところ、能右衛門は足痛のため、ばば(妻)が早速来た。中村屋庄助も早速聞き付け見舞いに来て、有馬屋も早速来た。
一、夜四ッ半(午後11時)頃、(小神野)勘解由左衛門*2・伊右衛門・安左衛門らが来た。宮之助が町方に居合わせ、勘解由左衛門より吉報の話をしたところ、早速見舞いに来たとのことで、酒・肴を持参した。座敷で面会。酒を出し、色々と話し、深夜に帰って行った。

  25日 快晴
 神酒を献ず。
一、下生政太方へ呼びに遣わしたところ早速来た。内々に帰職の沙汰があった旨を申し聞かせる。それはそれとして、拝借の件、整えて頂けるよう頼んだところ、「今朝伝神*3方へも行って話し合うつもりだったが、留守で帰ってきた」との話である。
一、今早朝、神野伊右衛門*4が来た。吾助より同人方へ書面があり承知したという。吾助弟は今朝早くやって来たと言っていた。
一、稲荷(屋)惣助が見舞いに来た。
一、根三田(村)勘解由左衛門・庄右衛門・太右衛門の息子らが来た。
一、八ッ時(午後2時)頃、仲町名主庄三郎が帰村したというので、早速人を遣わしたところ、「只今参着したので申し上げるところでした」と猿田由膳よりの書面が届いた。帰職が仰せつけられたのは間違いなかった。その上坂戸へも別紙を遣わそうとしていたが、「取り急ぎ書面が着いたならば、早々に御沙汰を下されますように」とお願いをした。以上。

 簡単な手紙を差し上げます。厳寒のところ、お揃いでご安泰でいらっしゃることをお祝い致します。さて、帰職お願いの件、 一昨日20日に(寺社奉行に)お伺いに参上しましたら、明後日に伺いに出てくるように仰せつかり、宿へ帰りましたところ、昨21日朝、お呼び出しがあり、松平摂津守様(寺社奉行)直々に、社中願いの通り、帰職を仰せつけられましたので、とりもなおさず別紙に御渡しの書面を添えて差し上げます。ご覧の上ご安心下さいませ。ちょうどよく庄三郎が帰村するので、早速ご意見をお送り差し上げます。惣宮様(神官の皆様)へも宜しくお伝えください。なお詳細につきましては、帰村の上お話いたします。右、取り急ぎこのようでございます。以上。恐々謹言。
   12月22日  猿田由膳
      鹿島丹下様

一、宮之助が来た。庄三郎の帰村を聞き、帰職見舞いに来たという。酒肴を持参した。
一、大宮司よりの使いで正一郎が来た。「ただ今、在府の藤四郎祢宜より書面が到来しました。御帰職の件、申し伝えが来ましたので、まず御内々に御沙汰を申し上げます」とのロ上であった。面会の上挨拶。「ありがたいことです」と申し遣わした。
一、同日、夜五ッ半時(午後9時)頃、会所より両所(大宮司と当祢宜)の書面が到来した。御達しをお伝えするので、只今から会所までお出で下さいとの書面である。この使いで、御蔵番(社蔵米の番人)の女房が来たので、とてもよろしくないと思い、畢竟(究極・至極等の意味)の社用役人か代官番がやってきて当然だと考えたので、代官番を呼びに遣わしたところ、善兵衛(大町名主・栗林氏)がやって来たので、「このお使いはどういうわけで蔵番女房が持参したのか」と聞いたところ、「私どもも分からず、恐れ入ります」とのことで、それより立ち帰って、また同人がやってきて、会所の御用提灯を付けて迎えに来たので、すぐさま支度をして、次上下(つぎがみしも)の善兵衛の案内で会所へ参上した。大宮司・ 当袮宜、その他、年番は行事袮宜(小社家)・社僧広徳寺・社用香島左中・村田主殿らが同席した。まず両所の前に座り、挨拶をしたところ、大宮司より「御達し申します」と申され、切紙を差し出された。見たところ、
   常州(常陸国)鹿島明神元大行事 鹿島丹下
 右を、社中願いの通り、惣大行事に帰職を申しつけ、1年は年頭御礼*5を差し出すのは 難しい事である(1年は幕府への新年の挨拶は不可である)。
   亥年12月
 右の通りである。見終わったところ、「お席へお進みください」と大宮司がおっしゃるので着席。両所・年番へ一礼に及んだ。大宮司より、「これからは御同役ですので、末永く(宜しくお願い致します)」などと丁寧に言われた。そのほか、早速政事(まつりごと)についてもお話があった。明後日に年番が引継ぎになるので、来年は私(惣大行事)が勤めるのが適切とのことで、「いずれ追ってご挨拶差し上げます」と言って、一同解散した。

  26日 晴
 今朝、両所へお見舞した。まず桜山(大宮司)へ参り面会したところ、盃・吸物が出る。「さて、これまでよくよく心配をおかけしました」と挨拶に及んだ。なおまた、「来年の年番、自分は久しくお役目から離れており、勝手も分からないので、どうぞ御両所へお頼みしたい」と、お引き受けいただけるようにお願いしたところ、「それはごもっともですので承知しました。どうぞ東氏(当祢宜)と相談の上、今年は拙者がお勤め致しましたので、是非東氏にお引き受けいただけるのがよろしいです」とおっしゃられた。なおまた、私の職料の件、年番からも11月中まではいろいろ考慮して対象外となるが、追々月ごとに支払いするとのこと。「この前からの帰職願いの費用の15両は、是非御頂戴頂けるよう、取り計らうつもりです。なおまた、その余りは勘定し、余分があるようならば、取り持ちますので、少しでもお返し下さるよう」と私の心得であることを、非常に親切におっしゃった。それより神野へ参上したところ同断(前と同じ)。吸物・盃が出て、これまた、年番を引き受け頂けるように頼み、(帰職の)御礼の出府等の件を相談した。桜山へも御礼出府の件を相談したところ、「この件は急ぐまでもないと思いますので、来春でもよいでしょう」などと申された。
 (後略)

​注釈

*1 下生政太(しものうまさた)…小祢宜。孫五郎祢宜。祭事役不詳。本姓不詳。新町住。

*2 勘解由左衛門…小神野勘解由左衛門。惣大行事家旧家臣の中心人物。根三田村。​​

*3 伝神(でんがみ)…小社家。田神ともいう。祭事役は、神饌を調理する役。札(ふだ)氏。本姓は真壁。当主恒一は天狗党に関与し、この翌年に佐倉藩兵に居宅内で銃殺された。享年31歳。桜町住。

*4 神野伊右衛門…大川伊右衛門。惣大行事家の旧家臣。神野住。​

*5 年頭御礼…鹿島の三支配(大宮司家・当祢宜家・惣大行事家)は江戸城での将軍に対する年賀の挨拶を許されていた。丹下は惣大行事職に復職したものの「年頭御礼は1年は不可」とされた。


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