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十、水戸弘道館に鹿島神社創建のこと

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記事ID:0066591 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 水戸の弘道館は9代水戸藩主徳川斉昭によって建てられた日本最大規模の藩校です。弘道館には、鹿島神宮より分祀して鹿島神社が創建されました。その由来について、斉昭に仕えた藩士で学者でもあった藤田東湖の著書「常陸帯」の記述を元に紹介されています。

読み下し文

常陸帯ニ云。武甕槌の神ハ武神尓天まし海す。文武の学校尓武神をのミ、祭り給ふハ以可々と疑ふ人もあらん。これハ深き思召あること尓て、志多しく仰をかふれるもの尓あらされハ、其よしを知るへ可ら須。君の仰尓、漢土の学校ハ必孔子を祭る。孔子ハ聖人尓て、人の標準と春る所なれハ、誠尓さること也。さ連とも神國尓て孔子をのミ祭らんハ、神皇の道を捨天、漢土尓従ふ尓ひとし。神ハこ能道の本尓て、孔子の教ハこの道をたすけ、ひろむるためなれハ、神を祭りて道の本を阿ガめ、つぎ尓孔子を敬ひて、この道乃以やまし成里尓奈りぬるよし越示すべし。
(中略。)
わガ常陸な流鹿島の神者、皇孫降臨志給ふ時大切阿りし神なれバ、いざやこの神の御霊を鎮座しめんとの仰尓て、武甕槌の神をバ祭り給ひぬ。云々。
是ハ天保十二年丑、弘道館を開き給ふ時乃仰を彪ガ志るし置介る也。然る尓禍乃こと阿り天久しく延引して今年安政四年巳五月神宮分祀尓奈れり。​

現代語訳

「常陸帯」*1によると、(鹿島神宮のご祭神である)武甕槌(たけみかづち)の神は武の神でいらっしゃるが、文武の学校(弘道館のこと)に武の神のみをお祭りするのはいかがなものかと疑う人もいる。これは深いお考えがあることだが、簡単に教えて頂けるものではないので、その理由を知らないのも無理はない。君公(徳川斉昭公)が仰るには、漢土(もろこし:中国のこと)の学校は必ず孔子を祭る。孔子は聖人で、人のあるべき姿とするべきところなので、当然のことである。しかし、神国で、孔子のみを祭るのは、神皇(じんのう:神と天皇)の道を捨て、漢土に従うに等しい。(武甕槌の)神はこの道の本(もと)であり、孔子の教えはこの道を助け、広めるためなので、(武甕槌の)神をお祭りして道の本を崇め、次に孔子を敬って、この道をますます究めるべしと示すものだ。

(中略)

 我が常陸の鹿島の神は、皇孫降臨された際に大役があった神なので、さあ、この神の御霊に鎮座頂こう、との仰せにより、(弘道館に)武甕槌の神をお祭りした…と言う。これは、天保12(1841)年に、弘道館をお開きになった時に(斉昭公)が仰ったのを彪(藤田東湖のこと)が記し置いたものである。しかし、不幸があったので延期していて今年安政4(1857)年5月に(弘道館鹿島神社)が神宮から分祀になったのである。

*1 江戸時代末期、9代水戸藩主徳川斉昭に仕えた藩士藤田東湖の著書。

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