本文
十一、博徒の勢力富五郎
(『櫻齋随筆』より)
博徒の勢力富五郎(せいりきとみごろう)一派が、嘉永2(1849)年の祭頭祭の折に横行して暴れたという事件が記録されています。現在は3月に行われる祭頭祭ですが、江戸時代は旧暦2月15日に行われていました。
勢力富五郎は、作中にも紹介されている通り「天保水滸伝」という講談にも登場する人物です。主に千葉県東庄町を舞台にした侠客の勢力争いの物語で、現在も東庄町周辺には多くの史跡が残っています。利根川を挟んだ鹿嶋地区にも博徒たちは出入りしていたようです。
読み下し文
嘉永二年癸卯二月十五日、祭當祭事の砌搏徒の長、下總匝瑳郡、万歳村奈る勢力富五郎同妾某、子分等拾余人、各長脇差を帯し、鎗を持多せ、鉄炮尓ハ火縄をつけ、参詣人雑沓の中を横行せしを、小祢宜松岡茂指止め介れバ、速尓火縄を消し敬礼して退散せしガ、程無く酒一樽持多せ代人をし天、先刻ハ誠尓失敬恐縮の旨申述、且全く富五郎ハ仲屋方に休憩中に天少しも存せ須、子分共の失礼仕候段、恐入候と申分尓天、其より吉川常穎方へ立寄て大舟津へ下りたるよし。
勢力ハ両總常州尓跋扈せし暴徒奈ガら、流石尓其徒の長たるもの故、敬神の道ハ少しく心得たりと見由。仲屋尓休憩云々ハ全く偽奈りと云。
今日数多の神官も詰合た連ども、宿直人を始、皆搏徒の猛威に恐怖して遮止むるもの一人も無りしに、其職尓も非らさる松岡ガ止め多るハ賞須べし。一体松岡ハ酒狂尓て、酔上尓ハ死をかへりミざる生質由ゑ、本日も大酔尓て、ひとり進ミ出してと云。兎尓角に賞春べきこと也。勢力ハ其後程奈く自殺せり。吉川常穎が實父吉川常彦が勢力の剱術の師故立寄たる也。委しきことハ天保水滸傳奈どゝ云講談尓天、世人よく知る由ゑ、略志て記さ須。
現代語訳
嘉永2(1849)年2月15日、祭頭祭の時に、博徒の長である下総匝瑳郡万歳村(現在の千葉県旭市の北部)の勢力富五郎(せいりきとみごろう)と妾の何某、子分ら10人余りが、それぞれ長脇差を差し、槍を持って、鉄砲には火縄をつけ、参詣人の雑踏の中で横行したのを、小祢宜(こねぎ)の松岡茂が差し止めたところ、すぐに火縄を消し敬礼して退散した。程なく酒一樽を代理人に持たせて、「先刻は誠に失敬恐縮致しました。」という旨を申し伝えてきた。その一方で、富五郎は「仲屋で休憩していて少しも知りませんで、子分たちが失礼致しました、恐れ多い事です」と言って、そこから吉川常穎方へ立ち寄って、大船津(現在の鹿嶋市大船津地区)へ下って行った。大船津へは、吉川常穎の実父吉川常彦が勢力の剣術の師だったため、立ち寄った。
勢力富五郎は、上総下総常陸を跋扈(ばっこ)している暴徒ながら、流石に博徒の長であるから、敬神の道を少しは心得ていると見える。仲屋で休憩云々は全くの偽りであるという。
今日、多くの神官が集まったが、宿直人(とのいびと)をはじめ、みんな博徒の猛威に恐怖して遮って止めるものは一人もいなかったが、その職ではない非番の松岡が止めたのは称賛すべきことである。もともと松岡は酒好きで、酔ったときは死を顧みない性質だったので、本日も大酔いで一人進み出たのだという。とにかく称賛すべきことだ。勢力はその後程なく自殺した。詳しいことは「天保水滸伝」などと言う講談にて、世間に知られているのでここでは省略する。