本文
六、大施度祈禱式
(『櫻齋随筆』より)
慶長五(1600)年の関ケ原の合戦の際に、徳川家康から鹿島神宮の大宮司家に祈祷の依頼があり、玉串を持参すると、たいそう喜んだ家康は、それ以降、毎月一日に天下安全の祈りを命じたと記載があります。
毎月一日の祈祷やそのあとに出される朝食についての詳細が記載されており、大変興味深い内容となっています。
読み下し文
慶長五年庚子八月、西國之軍起に付、家康君より大宮司則盛へ、祈禱を命ぜら流。九月十五日、玉串を持参の使者、藤川の營に詣り玉串を奉る。君大に悦び玉ひ、歸國せしめ、以後猶天下安全乃祈里を命ぜらる。是より以後毎月朔日、朝脩行す。其式者朝辰刻、大宮司本宮大床尓昇殿して祈念。次尓社家組神官一同、廣間へ昇り祈念。次尓大宮司退下。外神官ハ列を正して御手洗下参り、龗神社へ参拝。夫より大町下宿、両龗神社へ参拝。又御手洗同社へ参拝。又下宿、同社同断。次尓樓門内、南北同社参拝。次尓本宮昇殿拝礼。一同退下。右終て後、大宮司家に於て、出勤一同及、炊役、神守、専道等へ朝飯を出す。正月は二ノ膳付尓天、肴二種酒等を出す。餘の月ハ一汁二菜、香の物のミ也。
現代語訳
慶長五(1600)年八月、西国の軍が決起したので、家康君から(鹿島神宮の) 大宮司則盛へ、祈祷が命じられた。九月十五日に、玉串を持参した使者が、藤川(富士川:現在の長野県・静岡県・山梨県を流れる川)の陣営に玉串を奉納した。家康君は大いにお喜びになり、帰国してからも、鹿島神宮に天下の安全の祈りを命じられた。
これより以後、毎月一日に、朝修行をすることになった。その修行とは、朝辰の刻(午前7時から9時の間)に大宮司が本宮大床に昇殿して、祈念する。次に、社家組神官一同が、広間へ昇り祈念する。次に大宮司が退出する。他の神官は列を正して、御手洗池の龗神社(りゅうじんじゃ)*1へ参拝する。それから、大町下宿の両龗神社へ参拝する。そのあとまた御手洗池の両龗神社へ参拝する。また、下宿の龗神社へ参拝する。次に、楼門内側の南北龗神社へ参拝する。次に本宮に昇殿して拝礼する。一同退出する。これらが終わってから、大宮司家において、出勤してきた一同と、炊役(米を炊く係)、堀田神守(かんもり。小社家)、宮本専道(せんどう。小社家)などへ朝飯を出す。正月は二の膳がついてきて、つまみ二種と酒などを出す。他の月は一汁二菜と香の物のみである。
*1 龗神社(りゅうじんじゃ)は、鹿島神宮の参道に2社、楼門前に4社、御手洗池に2社で八龍神があったと伝えられていますが、櫻齋随筆の記述からも、複数の箇所に龗神社があったことが伺えます。現在残っている鹿嶋市宮中の大町地区の龗神社は、参道の2社が合祀されたものです。
(参考文献:「鹿嶋市寺社建築ひと巡り」 2011年 鹿嶋市教育委員会発行 )