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五、鹿島山内にて大蛇を見る

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記事ID:0066583 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 天保の末(1844年)頃、宮下(現在の鹿嶋市宮下地区)に住んでいた修験者が、下津村(現在の鹿嶋市下津地区)からの帰り道に鹿島神宮の森で、太さ一尺(約30cm)程の大蛇を見たというエピソードが記されています。

 また、弘化の初め(1844年頃)には、厨(現在の鹿嶋市厨地区)に住んでいた木挽(こびき:木材をのこぎりで引いて用材に仕立てる仕事の人)が、鹿島城の跡で長さ六尺(約180cm)以上の大蛇を見たとの記載があります。

 修験者が下津からの帰り道に通ったという「潮社(いたのやしろ)」は、下津から鹿島神宮樹叢方面に向かう「下津通り」に現在も残っています。また、鹿島城跡は現在城山公園として市民の憩いの場になっています。現在も残る場所に大蛇がいたかもしれない…そう考えると少し怖くもありますが、江戸時代が身近に感じられますね。​

読み下し文

天保の末乃頃、或夏宮下に住居する、修験者大教院三好右京、下津村辺尓用向ありて行たる帰りに、潮社より宮林近く来りし頃、行先の往来道中尓、黒き女帯乃如きもの横たはり阿る故、何人可帯を道中へ落したるや。余り心無き仕王ざと思ひつゝ近川く不ど尓、その黒支も能ハ見え須奈り怒。弥々、不審尓思ひ、その有りしとお不しき所尓至りて与く見流尓、道筋尓ハ変りたることも無く、左右乃小松林の内乃夏草、凡幅壱尺余も左右へ分れ、中ハ一文字に、車尓ても曳多る如くうちふしたり。これを見天、初天黒きものハ、大蛇奈るを知里、俄尓恐怖し急支迯帰れりと。

弘化の初頃、宮中佐竹中務の旧城跡、俗城山と称、尓天、或時壹人の木挽、厨の住人、伐木して居多る処へ兎一疋、飛ガ如く迯行き介る由ゑ、何こと尓やと見る間に、其首、小児の弄ぶ神楽獅子の頭程なる大蛇、首を地上よ里六尺不どたてゝ、大ひ奈る口を開き、彼の兎を追ひ来りしかば、木挽ハ大ニ恐怖し、斧鋸も打捨、不う〳〵我家に迯帰り介るガ、夫より四五日、發熱して疾臥したりとそ。

現代語訳

 天保の末(1844年)頃のある夏、宮下(現在の鹿嶋市宮下地区)に住んでいた、修験者の大教院三好右京(だいきょういんみよしうきょう)が、下津村(現在の鹿嶋市下津地区)へ用があって出かけた帰りのこと。

 潮社(いたのやしろ:現在の鹿嶋市宮中の下津通りにある神社) から鹿島神宮の森の近くへ来たところ、行く手の往来の道の真ん中に、黒い女の帯のようなものが横たわっていたので、「誰かが帯を落としたのだろうか?あまりに心無いことをするものだな」と思いながら近づいていく程に、その黒いものは見えなくなっていく。いよいよ不審に思って、黒いものがあったと思われるところにたどり着いて、よく見ると道には変わったところはない。左右の小松林の内側の夏草がおよそ一尺(約30cm)余りも左右に分かれていて、中の草は一文字に車でも引いたように伏せっていた。これを見て、初めて黒いものは大蛇だったことを知り、急に怖くなって急ぎ逃げ帰ったと言うことだ。

 弘化の初め(1844年頃)、(鹿嶋市)宮中にある佐竹中務(なかつかさ)の旧城跡―俗に城山と言う(現在の鹿嶋市城山地区)―にて、ある時、一人の木挽(こびき)―厨(現在の鹿嶋市厨地区)の住人である―が、木を切っているところへ、その首が子どもの入っている神楽獅子の頭ほどの大蛇が、首を地上より六尺(約180cm)ほど立てて、大きな口を開いて、兎を追いかけていたので、木挽はとても怖くなって、斧ものこぎりも捨てて、ほうほうの体で我が家に逃げ帰ったが、それより4、5日熱を出して寝込んでしまったという。

避難所混雑状況