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鹿島開発

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記事ID:0050252 更新日:2021年3月29日更新

現在、鹿嶋市南部から神栖市に続く沿岸には、大規模な掘込式港湾があり、その周囲には巨大な工場地帯が広がっています。この工業地帯は、昭和30~40年代に行われた「鹿島開発」により、誕生しました。

開発前の三町村

鹿島町(現鹿嶋市)、神栖村・波崎町(現神栖市)

開発当初、マスコミでしきりと「貧困からの解放」などと謳われ「貧しい貝拾いの老婆の逸話」などが取り上げられて、鹿島地域が貧困地帯であるような印象をもたれる側面がありました。実際には、当時の主産業であった農業の生産性は県内平均を上回っており、平均的な生活水準であったと言えるでしょう。

当時の鹿島地域は、農業と漁業が主で、鹿島台地を中心とする畑作や、北浦・利根川流域を中心とする稲作などが行われていました。また、三町村(鹿島町・神栖村・波崎町)は、県内でも有数な養豚地でもあり、昭和36年の茨城県農業所得統計では、農業生産性がいずれも県平均を上回っています。

昭和36年農業生産性の比較

鹿島臨海工業地帯造成計画

鹿島地域を開発しようとする計画は、鹿島灘沿岸の広大な土地と霞ヶ浦の豊富な水の結びつきを考えながら昭和35年(1960年)ごろから具体化されました。昭和30年代、「所得倍増計画」等を国が打ち出し、日本経済は高度成長を迎えていました。そのような状況を背景に、鹿島開発は「茨城県総合振興計画大綱」の中に位置づけられて、県主導で進んでいきました。

当時の茨城県知事・岩上二郎(いわかみにろう)は「鹿島開発構想試案」を作成し、それを元に昭和36年に「鹿島灘沿岸地域総合開発計画―臨海工業地帯造成計画―マスタープラン」が打ち出され、県議会においても公表されました。県が描いた開発構想は変更を重ねて「鹿島臨海工業地帯造成計画(マスタープラン訂正)」が策定され、これが鹿島開発の基本計画になりました。

これによると、開発区域は鹿島町・神栖村・波崎町にまたがる約2万ヘクタールで、10万トン級の船舶が入港できる掘込式港湾を中核とし、周囲には約3,300ヘクタールの工業団地を造成するという壮大なものでした。この計画に基づき、鹿島臨海工業事務組合が設立され、工業用地の買収が開始されました。

町民に開発計画が説明されたのは、昭和37年(1962年)に入ってからでした。各地区や団体ごとに説明会が開かれ、開発推進大会などを通じて住民はこの巨大事業の詳細を知らされました。

開発時期の鹿島町議会風景の画像開発予定地周辺の住民を中心に用地提供や集団移転などの協力が求められ、当初反対運動も起き、反対派と開発推進派の対立が町を二分しました。昭和42年(1967年)に入ると、工業用水道事業や国鉄鹿島線の起工が相次いで行われ、日本最大規模と言われた開発事業は急ピッチですすめられました。昭和44年10月には鹿島港も開港し、それに合わせて各企業の工場も操業を開始しました。

企業の操業に伴い、それまで16,000人台だった鹿島町の人口は毎年平均2,000人程増え続け昭和54年には38,000人を超えています。農業が主産業であった鹿島地域は、開発後、近代鉄鋼工業を主軸とする第二次産業人口が飛躍的に増大し、町の財政規模も順調に伸び続け、地域経済の発展と行財政に大きな波及効果をもたらしました。

鹿島開発

参考文献

『図説鹿嶋の歴史 近現代編』
『鹿嶋開発史』
『鹿島町史 第5巻』
『鹿島のあゆみ』

※開発時期の鹿島町議会風景…『鹿島町史第5巻』より転載

避難所混雑状況