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戦時下の鹿嶋-海軍神之池航空基地

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記事ID:0050093 更新日:2021年3月29日更新

第2次世界大戦時、国内各地でも飛行場建設が行われ、昭和15年(1940年)頃に当時の高松村(現在の鹿嶋市南東部)の粟生・国末・泉川と息栖村(現神栖市)の居切の4地区の丘と浜の中間にまたがる約500ヘクタールに海軍の飛行場が建設されることになりました。
軍により用地買収が行われ、翌16年には多くの徴用工員等を動員して造成工事が開始されました。まず国末地区の台地の表土が、ついで粟生地区の城跡を含む台地の表土が、徴用工や勤労奉仕作業等により飛行場建設現場へトロッコ列車で運ばれました。飛行場予定地は当時砂地だったので、まず地ならしし、その上にトロッコで運んだ赤土を敷いて、芝生化を行う必要があったのです。

トロッコ列車運搬経路

基地の構造は1,800mと1,400mの2本の巨大滑走路と4本の小滑走路をもち南側に第2飛行場が設置されていました。建設は急ピッチで行われ、滑走路や兵舎などが完成し、昭和19年4月に正式に練習航空隊が開隊して、多くの海軍士官候補生・予備学生・予科練出身の搭乗員などが集結して飛行訓練が開始されました。

航空隊舎略図

当初は陸上練習機の操縦教育を担う航空基地でしたが、交通が不便だったことなどから、神之池基地は特攻隊の訓練基地となっていきました。特攻隊というと九州の鹿屋基地などを思い起こす方が多いと思いますが、鹿嶋にはその鹿屋基地に行く前の練習基地があったのです。
隊員や基地関係者などが 下宿していた民家も多かったようです。“大概の家では、兵隊さんも大変だろうということで下宿を受け入れていました。兵隊さんはそこで家族同様に扱われ、休養し鋭気を養いました。中には、若い娘さんと良い仲になり、後日結婚した人もいた”そうです。(『私たちの郷土嗚呼高松村』(高野文男著)より引用)昭和20年に入ると戦局はますます悪化し、2月16日~17日関東地方の各飛行場に米艦載機が襲来しました。神之池基地には、朝8時頃から午後4時頃まで9回にわたり延べ130機余りが現れ、航空機や宿舎を攻撃し、壊滅的な打撃を受けました。この時既に迎撃機はなく、敵機のなすがままで、搭乗員たちは三々五々に基地周辺に避難したといいます。米軍機は、数多くの反戦のビラと降伏のビラを空中からばら撒いていきました。

この年の8月15日には日本は終戦をむかえる事となります。

戦後、神之池海軍航空基地は食糧増産のために開拓され、昭和30年代には「鹿島開発」の拠点となり、基地跡地に住友金属工業(現新日鐵住金)が誘致され鹿島製鉄所として現在に至ります。

参考文献

『鹿島町史第5巻』
『私たちの郷土嗚呼高松村』
『図説 鹿嶋の歴史近現代編』
『鹿嶋史叢第20号』

避難所混雑状況