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おじいさん・おばあさんの戦争体験
戦時下の鹿嶋でどんなことが起こっていたのでしょうか。当時の鹿嶋を知るお年寄りに体験談を伺いました。
※【掲載方法】今住んでいる所・名前(もしくはイニシャル)/<当時>当時の年齢・当時住んでいた地区
市内 加藤正元さん(男性) <当時>10代半ば:木滝地区
いつも夕方になると、飛行場から一式陸攻が腹に桜花(練習機)を付けて飛び立つ様子がよく見えてねぇ。飛行場を飛び立って上空を一周回って帰還する練習をしていたよ。
当時、私の親が村長をやっていたから、家には太田少尉(当時は中尉ではなく、少尉でした。)や常時6~7人の特攻隊員がグループで入れ替わり下宿していてね。まあ、どこの家もみな、隊員らを歓待して、下宿を受け入れてごちそうを振る舞ったりしていたんだけども。
特攻隊の青年達は自分とそう変わらない歳だったからね、学校の話や勉強の話で、夜中まで話し込んだりしてねぇ。彼等は、「(特攻攻撃で)いつか自分は死ななきゃならない」という気持ちがあったからか、毎晩お酒を飲んで明るく騒いでいたよ。
木滝地区は空襲の被害はあまりなかったけどね、こちらから(日本軍が迎撃のために)放った破片がバラバラと近くに落ちてきて危険な思いをしたことがあったよ。その破片がするどくてねぇ…高角砲といったのかな…それが山と山の間にいくつも設置してあったんだよ。
あの時代は、勉強どころじゃなかったからね。当時私は旧制中学生だったけど、小学生たちは飛行機の燃料にするための油として、松から松脂取りをしていたよ。英語は絶対禁止でね、教科書の英語は墨で塗りつぶしたものだけど、終戦後は一転して英語が教科になっちゃってね、英語の勉強に我々の世代は苦労したよ。
終戦後も神之池基地に残っていた軍人さんもいてねぇ、残務整理みたいなことをしていたようだけども。昭和20年の9月~11月頃だったか、戦死した兄の遺品を水戸に受け取りに行く時、神之池基地の軍人さんに軍用車で水戸まで送ってもらったことがあった。彼らは太田中尉の遺品を届けに福島に行く途中のようだった。
その後、神之池基地の兵舎にはアメリカ軍が駐留して、飛行機の解体などをやっていたね。お風呂に入るためにアメリカ兵が毎晩うちに来てね、「日本のお風呂は変わっている」と片言の日本語で話していたよ。また、鳥を鉄砲で撃つのが趣味の兵士がいて、ジープの助手席に乗ってあちこち近くの森を案内したっけね。学生の私が兵舎に入っていくと、兵舎の護衛をしていた日本の警察が不思議な顔をしたっけねぇ。アメリカ兵はお礼として缶詰なんかをたくさんくれてね、近所の人にもお裾分けしたもんだ。
名前は忘れてしまったけど、下宿していた特攻隊員の中に、お地蔵様を造って私の部屋に置いていった人がいたんだよ。その方が戦死したと聞き、それまでは部屋に置いておいたけれど、終戦後に自分の家の墓地に安置してね、お地蔵様は普通西向きにすると聞きくけど、そのお地蔵様は飛行場があった場所を見つめるように私は東向きに置いているんだ。これはなんの地蔵様だと不思議がられるので、「戦死した隊員のお地蔵様だから線香をあげていってくれ。」と皆に言ってね。今思い返すと、考えられない時代だったな。
市内 I・Hさん(女性) <当時>10代(昭和5年生まれ):小山地区
米軍の飛行機が爆弾を落としてあちこちで怪我人が出ていたね。
角折地区で守子(もりこ:イタコのように占いをしたり、亡くなった人の魂を呼び返す女の人)が爆弾で片足を飛ばされて血だらけで家に駆け上がってきたことがあったよ。恐ろしさよりも驚きのほうが先だった。
まだ10代前半だったので空襲の思い出はほとんどないけど、鹿島地方では飛行機が落っこちただの、落下傘が落ちてきた話をしょっちゅう聞いたよ。
市内 H・Iさん(女性) <当時>10代(昭和5年生まれ):泉川地区
昭和15年10月頃の小学校4年生の時、佐田の所(弁財天前の松林)から、出兵する兵隊さんをクラス全員で見送りに行きました。その際に、父もまた戦争のため国家のために出兵(三度目)していくのを見送りました。
小学校5年生になった時、尋常小学校から国民学校と名称が変わりました。そして、授業の時間に敵が来た時に備えるため、「エイッ」「ヤー」と声をかけながら木製の薙刀でお稽古をやり、身に付けました。
昭和20年3月10日東京大空襲の日、皆でサイレンの空襲警報が鳴ったら、家の裏に作った小さな防空壕に急いで入り、息を止め、B29の爆撃機が去るまで息を潜めていました。外に出てみると東京方面から銚子方面まで火の海のように赤々と空を照らしていました。
その後は、日本全土に向けたB29の焼夷弾攻撃で家の中は明るくしているとその目標にされるかもしれないと思い、電気をいつも暗くし、ビクビクしながら過ごしていました。
終戦末期に入り、光地区や泉川地区に飛行練習場が出来ていたので、航空母艦から戦闘機が押し寄せてきました。そして、格納庫を攻撃したりしながら飛行していたので、生きた心地がしませんでした。B29が本土を爆撃して海に向かって逃げる際に、居切浜に焼夷弾を落としました。その時に若い女性が急いで小屋に逃げてきたのですが、まともに当たってしまい、折り重なって何人か亡くなったそうです。終戦後、父は満州国から大連を経由し命拾いしながらも、無事帰国できました。別人のように痩せ細くなっていましたが、よく見ると判りました。
市内 S・Cさん(女性) <当時>10代(昭和8年生まれ):武井釜地区
時期は春から初夏。荒井地区にある学校に行く途中、沖からカラスの大群を思わせるような飛行機が陸に向かって飛んできたんだよ。
敵の飛行機が陸に近づいてきたら、空襲警報が鳴って、防空壕に避難した。防空壕は土を掘って造ったものだからね、天井から土がパラパラと落ちてきてね。
防空壕は、自分たちで掘って各家に1基づつあったかな。
低空飛行の飛行機が近づいてきて襲撃されたこともあったよ。近所の洗濯物まで狙ってた。母親はかなり怖い思いをしたらしい。庭や道路にはたくさんの薬莢が落ちていたよ。薬莢をザルにいっぱい拾った記憶がある。
日本の兵隊が志崎のデンプン工場のある民家に下宿していたよ。農家の仕事は、敵の飛行機が見えないときにやってたね。
市内 O・Kさん(男性) <当時>10代(昭和5年生まれ):田谷地区
自分は当時、15・16歳で現鹿島高校の農業科に在籍していたよ。
現在の田谷公会堂に兵隊さん20名位が宿泊していたね。食事などは兵隊さん自身で作っていたようだったよ。現在の鹿島神宮駅あたりに爆弾が落とされたこともあったんだ。その爆弾による被害者がいた様子はなかったよ。
市内 K・Mさん(男性) <当時>10代(昭和3年生まれ):粟生地区
特攻隊員を含む兵隊さんが何人か家に下宿していたんだよ。兵舎はハンモックだからね、たまに周辺の家に泊まりに来て布団に寝るようにしていたようだよ。
飛行場での訓練、親飛行機から切り離されて滑空する特攻訓練が飛行場の外からも見えていたもんだ。
母が特攻隊員の兵隊さんに「お前はあれ(桜花練習機)に乗っているのか」と聞いたことがあったっけが、「自分は零戦に乗っているんです」と(桜花搭乗員であることを)ずっと隠していたよ。ナカガワさんという自分と歳もそう変わらない若い青年だった。
自分の親にも内緒にしていたようだけども、親なので何か感づいたのか、その兵隊さんのお母さんが福井からうちを訪ねてきた事があってねぇ。うちに来たとき「息子に食べさせようと餅をついてもってきたが、途中で警察に取られてしまった。」と泣いていたんだよ。うちは農家だったから、もち米もあったし「うちでついて食べさせるから。」と約束して、兵隊さんに何回も餅をふるまったよ。
ここに掲載した体験談は、平成27年~平成28年7月の間に聞き取りを行ったものです。