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おじいさん・おばあさんの戦争体験3

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記事ID:0050098 更新日:2021年3月29日更新

戦時下の鹿嶋でどんなことが起こっていたのでしょうか。当時の鹿嶋を知るお年寄りに体験談を伺いました。

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※【掲載方法】今住んでいる所・名前(もしくはイニシャル)/<当時>当時の年齢・当時住んでいた地区

市内 高野武男さん(男性) <当時>10代半ば:粟生地区

当時、私の家には特攻隊員4名の方が交替交代に1ヶ月~2ヶ月に1度程度泊まりに来ていました。清水さん、鶴丸さん、菊地さん、塚田さん…皆、神之池基地から鹿児島の鹿屋基地に行って、そこから沖縄に出撃し戦死されました…。

…彼らは、時たま友人を連れて来たりもしたりしましたね。あと、基地の風紀などの取締りをやっている大田さんという憲兵の方が一人、3カ月に1回くらいかな…車(ダットサン)に乗って泊まりに来ていました。

私がまだ小さかったからか、彼らは戦争の話はほとんどしなかったですね。食糧のない時代でしたが、飛行兵は食糧やお酒などが優遇されていて、家に来るときには、飛行服の中にお酒の一升瓶などを隠して持ってきて、私の父とお酒を飲みながら、踊りをおどったり、輪になって「月が~出た出た~」とその頃流行っていた炭坑節を歌って賑やかにしていたのを、今でも鮮明に覚えています。夏には、酔っ払って梯子持ち出して屋根の上に登って涼んだりしてね…。当人たちは特攻で死ぬ事が分かっていたはずですが、悲壮感を全く見せませんでした。

神之池基地は海軍の飛行場でしたので、同じ海軍関係である予科練の出身者が多くいました。うちに下宿していた清水さん以外の3名も、予科練出身者の方でした。当時、予科練には皆憧れたものです。桜に錨が入った七つボタンの制服がかっこよくって、「僕も予科練に入りたい。」と言うと、鶴丸さんに「予科練はダメだよ。」と怒ったような顔で言われたことがありました。死ぬことがわかっていたので、そんな風に言ってくれたのでしょう。

また、ある日、清水さんに「たけちゃん飛行機に乗せてやるから一緒に行こう!」と、神之池基地に連れて行ってもらったことがあります。清水さんは、東京の師範学校で兄と同級生だった方で、当時少尉でした。滑走路に6機の零戦と2~3機の一式陸攻が停めてあって、「乗ってみるか?」とそのうちの一機の零戦に乗せてくれて、色々と説明をしてくれました。飛行機は動いていませんでしたけれど、乗せて貰えただけでもう嬉しかったです。

清水さんは「出撃する時には、この上(高野さんの自宅の上空)を二旋回して出撃しますから。」と、私の家の上空を零戦で二回回って鹿屋基地に飛び立っていかれました。それが最後でした。清水さんは、将校だったので、沖縄で編成隊の隊長として敵艦隊に突っ込んだそうです。

特攻に行く彼らに、父は「幸運を祈る」と家にあった日本刀を贈り、それぞれの方が鹿島を立つ最後の日には、どこからかもち米を調達してきて赤飯を炊いてあげて送り出しました。彼らは「国のために頑張ってきます。」と鹿屋へ飛び立っていきました。

基地から脱走してきた整備兵を泊めたこともありましたね。夜中の12時頃にどんどんと雨戸を叩く音がして、父が戸を開けると兵士の恰好をした人が立っていました。その方は、朝の点呼に間に合うように朝4時頃帰っていきましたけど、そのようなことが3回くらいありました。それだけ基地の生活が厳しかったのでしょうかね。

そういえば、神之池基地の向かいの大ノ坊※には、基地が攻撃された際に備えて軍が隧道を掘ってそこに兵舎を造ってありましたね。入り口はもう塞いであるけれど、今でも残っているんじゃないかな。(※大ノ坊…神之池基地(現在は新日鉄住金鹿島工場)の向かいにある小高い台地。)

終戦間近の昭和20年4月~8月には、私は学徒動員で土浦の海軍航空省に動員され、学校の同級生らと共に、寄宿舎で寝泊まりして、工場で働いていました。海軍航空省には麻生中学・土浦中学・土浦女学校・水戸女学校の生徒が動員され、皆それぞれ軍事工場に配属されていました。私は零戦の翼の中のビス止めを行っていました。

8月15日に「天皇陛下のお言葉がある」という事で、全員集るよう言われましたが、スピーカーの性能が悪くってよく聞き取れなくてね…周囲からボソボソと「戦争に負けたようだ。」という声が聞こえてきましたが、「とにかく今までの作業を続けなさい。」と言われました。翌日、自転車に乗った海軍将校が来て「陸軍が降伏したが、海軍は絶対に降伏しない!そのまま仕事をしろ」と言われて、終戦日から10日間もただ働きしました…そういう時代でしたよ。

土浦に行く時は、麻生より「あやめ丸」に乗って同級生96名と一緒に船に乗って土浦に行きましたが、帰ってくる時は、各自で家に帰らねばならず、私は電車で土浦から石岡に行き、石岡からバスを乗り継いで1日がかり鹿島に帰ってきましたね。

終戦後、清水さんのお父さんが長野県より「お世話になりました。」と挨拶に見えました。清水さんの親もうちの親も教師をしていたこともあって話が合い「是非うちにも遊びに来て下さい。」と何度もお話をいただいたので、父は長野のご実家へお伺いしました。

それと、昭和32~33年頃だったか東京の京王デパートで「特攻隊の手記」という立て看板を見て、もしや神之池基地にいた方の手記もあるのではと入ってみると、鶴丸さんの遺書が展示してあり、その偶然にびっくりしました。とても綺麗な字で書かれた遺書でした。

笑顔で最後に握手した温もりを今でも忘れられません。

市内 O・Kさん(男性) <当時>10代後半~20代前半(大正14年生まれ):長栖地区

当時、居切(現神栖市居切)に川掘りがあって、清水が湧いてそこからとても良い水が汲めたんだよ。神之池基地では、そこから水道管を敷設して山王台(神之池基地の向かい側にある小高い台地)まで給水し、それを兵舎に流して基地の生活用水として使っていたよ。

当時、私は長栖で大工をしてたから、神之池基地に格納庫を造りにいったりしたね。基地には大工の証明書がないと入れなかったよ。戦争で若い大工が私くらいしか残ってなかったからねぇ、屋根を造る作業は私がやるしかなかなくてね。

私は、家に働き手が自分しかいなかったので徴用を免れて、髪も伸ばしてオールバックにしてたんだ。そしたらある時、軍人さんに「その髪型はなんだ。」と言われてねぇ。私は咄嗟に「自分はこれから戦争に行く身です。今の戦争の状態では生きて帰って来られるとは思っていません。死んで国に奉公しようと思っているのですが、形見に一番何がいいかと考えて、頭の毛が一番良いと思い、伸ばしているんです!」と言ったら「そうか。」と見逃してもらえたよ。

神之池基地の海軍兵士達は自分たちで下宿先を探して、休日にその下宿先に行ったりしていたね。それで当時、高松小学校に当時とても美人な先生がいてねぇ、その先生が体育の授業などをしていると休みの兵士らがわざわざ見に来たりしていたよ。

あとね、高松村では、なんでんかんでん佐田の池の大きな松がある所で、村から出征する人を見送って、また村の戦死者が帰ってくる時はそこで迎えたんだよ。戦死者を迎える時には軍から村役場に連絡があって、有志や村役場の役職の人や国防婦人会の人や青年団が松の木の所に集まって出迎えた。私は当時高松農業青年学校で、銃剣を持って儀仗兵の役割をしたんだよ。けれど…昭和19年頃からは、スパイを心配して見送りはしなくなった。

それから、居切浜にB29が落ちてきたことがあったね。アメリカ軍が東京に空襲に行く時に、鹿島灘から東京方面へ出入りしたので、空襲の帰りに神之池基地の上空でB29と零戦が空中戦を繰り広げたことがあったんだよ。まるで鷲(B29)にスズメ(零戦)がたかっているように見えた。B29の残骸が火の玉のように燃え盛りながら、居切浜の民家に落下したので、農作業を途中にして見に行ったんだ。住人の女性が酷い火傷を負って顔が分からないくらい腫れていて、呼吸をする鼻が「プーっープーっ」と膨れていたよ。本当に酷い火傷で、見ていられなかった。

山王台の西側には機関銃みたいなものが設置してあったけれど、兵士らは敵の攻撃を受けながらなので、相手方を見もせずに、頭を伏せてバッバッバッバ!と打っていたよ。

徴用を免れていた私も、昭和19年7月に兵役検査をして20年5月15日に海軍の工作学校に入隊することになってね。入隊すると、通常3か月かかるものが2ヶ月で繰り上げられたりして、どんどん出世してしまうような状態で、その時「この戦争は勝ち目がないのかもしれない。」と思ったね。戦争に負けた時驚いたのは、「持って帰っていい」と、沢山の羊羹や赤玉ポートワインが皆に配られた事だね。海軍があんなに物資を備蓄していたことに驚いたよ。私はお酒を飲まないので替りにはちみつを持って帰ってきたんだけれど、甥っ子の体調が良くなかったので、食糧難だった当時、そのはちみつがとても役にたったよ。

私は今まで自分が思うように生きてきた。本当に運が良かったんだと思っているよ。

ここに掲載した体験談は、平成28年8月に聞き取りを行ったものです。

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