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おじいさん・おばあさんの戦争体験2
戦時下の鹿嶋でどんなことが起こっていたのでしょうか。当時の鹿嶋を知るお年寄りに体験談を伺いました。
※【掲載方法】今住んでいる所・名前(もしくはイニシャル)/<当時>当時の年齢・当時住んでいた地区
市内 内田次雄さん(男性) <当時>10代半ば(甲種第14期飛行予科練生)
※(補足)予科練…旧日本海軍の搭乗員養成の基礎教育を行う機関。14歳~17歳までの少年達が全国から選抜されました。勉強も運動も出来る優秀な生徒しか入隊できず、予科練に合格することは誉れ高いことでした。
当時、私は予科練生でね。昭和18年4月試験に合格して、土浦海軍航空隊の予科練に入隊しました。鹿島を立つ時には、大船津の鳥居のところで大勢の人に見送られて、船に乗って土浦に行ったんだよ。予科練での就寝前のひと時に、それぞれの故郷に向かい祈る様な気持ちに浸ることが多々あって、私は遥か鹿島の空、南東を向いて懐かしむ明け暮れでありました。
予科練には、私の他には鹿島からは粟生(現:鹿嶋市粟生)の幡勇さんがいましたね。彼は私よりも学年が一級上で、半年早く入隊しており、終戦間際に特攻隊にて戦死された。口数の少ない物静かな人でした。ある日の夕方、武道場で幡さんが柔道をしていることを見かけたことが一回だけあったけれど、あれが幡さんとの今生の別れでありました。
戦時中の鹿島といえば、予科練に行く前に通っていた鹿島農学校には、傷痍軍人が軍国教育のために配属されていましたね。勉強を教える先生とは別に軍事教育をするためだけの先生として傷痍軍人がいたんだよ。
私も予科練で2年生が終了すると、当時まだ17歳だったけれど特攻隊に志願しました。百里基地(現在の茨城空港)へ配属されたけれど、その頃すでに終戦間際でね。ある晩、真夜中に部隊編成がなされて8月18日に出撃するよう命令が伝えられた。その時の提灯に照らされた隊長の加賀少佐の姿を思い出します。この隊長の下でいよいよ我々は死地に向かうのかとゾクゾクする緊張感がありました。
沖縄からアメリカ軍が進出してくる中、日本軍は北へ北へと飛行場を移動したんだね。私たちは軍用列車で青森県の三沢基地に移動しました。命令系統も混乱しているようでした。その車中、ちょうど水戸駅あたりを通過する時に天皇陛下の「終戦の詔」があるという話を聞き、三沢に着くと終戦を知らされました。軍ではタバコを吸うことはきつく禁止されていましたが、その時上官に「タバコ吸ってもいいぞ!」と言われ、なんというか拍子抜けしました。同時にここから鹿嶋まで歩いて帰らなくてはならないのかと途方に暮れる思いでしたが、何日かして今度は残務整理ために厚木基地に行けという命令がありました。
夜中に厚木基地に着いたのですが、それはもう大火災でもあったかのように、なんでもかんでも燃やしていました。それから進駐軍がやってきてその護衛を任されました。それから1カ月くらいで解散が言い渡され、電車で鹿島へ戻ってきました。終戦して間もない頃でしたので、まだ交通事情も悪く、水戸までいって水戸で一泊野宿して鹿島へ帰郷しました。9月下旬頃だったかな。
帰ってくる時は負けてしまった引け目があったので、毛布一枚をリュックに入れてひっそりと帰ってきましたね。鹿嶋へ帰ってきてからも私はしばらく放心状態でした。
軍人として戦争に参加したのは、私どもが年齢的に最後の世代だと思います。こうして私の脳裏に浮かぶのはかの剣聖と謳われた塚原卜伝の言葉です。
「武士(もののふ)の いかに心の猛(たけ)くとも 知らぬことには不覚あるべし」
相手国の力量を確かめ推し量る余裕もなく気力頼りの無謀な戦争によって、日本は取り返しのつかない不覚をとったのです。戦いに敗れ70年以上経った現在、一国を率いる指導者達には、軽はずみに国民を扇動して無謀な戦いの場に駆り出さないで貰いたいと心に強く思います。かつて九州の薩摩藩・山口県の長州藩が明治維新にこぎ付けたのは、実に三百年の隠忍の歳月を送った如く、我々日本人は永い年月をかけて粘り強い忍耐と努力を重ね、足腰強い国力を充実しなければならないと思います。
香取市 匿名希望(男性) <当時>10代後半~20代前半(大正14年生まれ)
昭和18年6月から7月の暑い時期に、掩体壕を造りに鹿嶋に行ったんだよ。青年学校(現在の香取市立小見川北小学校の場所にあった)の時に、戦闘訓練や勤労奉仕を行う中で、20人ぐらいのグループで掩体壕を造りにいったんだ。
小見川から息栖まで船で行き、そこから徒歩で鹿島に向かったんだよ。朝、小見川を出て昼ごろには鹿嶋(粟生)に着いた。学校のようなところに泊まっていたのだけど、布団はなくて、毛布を2枚渡されて雑魚寝だった。20人のグループに対して15人ぐらいの大人が混じって、トロッコで運んできた土(砂)を担架のような道具に載せ替えて積み上げていく作業をしたよ。
水を汲んでくる人もいて、どこからか水を汲んできて砂に混ぜて砂を固めたよ。円墳のような土饅頭ができたら、筵(むしろ)をならべて…そこで自分たちのチームは終わりになった。一輪車のような道具はなくて、簡単な担架のような道具で、道具は与えられたものを使っていたよ。
同時にいくつかのグループが作業をしていて、筵(むしろ)を敷き終わったところには、鉄筋のようなものを並べてコンクリートを流しているグループがいたり、コンクリートの下から砂を掻き出す作業をしている人もいたね。その掻き出した砂は、2つ先に造る次の掩体壕用の砂になっていた。
潮来から来た人たちは、深芝まで船で来たと言っていたな。同時に飛行場を造っていたけど、監視の目が厳しくて、あまりキョロキョロすることはできなかったよ。食事は提供されたけど、イカのようなものを刻んだものと大根の葉と豆と等級が低い米が少し入った粥だけで、不味かったなあ。家ではご飯をたべていたし、環境が変わったこともあって、喉を通らなかったよ。
ここに掲載した体験談は、平成28年7月に聞き取りを行ったものです。