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おじいさん・おばあさんの戦争体験5

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記事ID:0050100 更新日:2021年3月29日更新

戦時下の鹿嶋でどんなことが起こっていたのでしょうか。当時の鹿嶋を知るお年寄りに体験談を伺いました。

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※【掲載方法】今住んでいる所・名前(もしくはイニシャル)/<当時>当時の年齢・当時住んでいた地区

市内 N・Fさん(女性) <当時>10代半ば(昭和2年生まれ):粟生地区

当時学校では、避難訓練をしたりなぎなたの練習をしたりしていました。

自宅の裏山には兵舎があって、私の家の庭を通って兵舎に食事を運搬していてね。隣の山に20キロの不発弾が落ちて、うちの庭にも爆弾の破片が飛んできたこともありましたよ。

母は産後だったので、私と父で田んぼ仕事をしていると空襲のサイレンがなってB29が現れました…50機くらい飛んできて、白の上下を着た近所の人が撃たれて死んでしまった。

終戦の日には、私は兵隊さんと粟生のうしろやずで防空壕掘りの手伝いをしていました。作業の途中で兵隊さんが「国の重大放送があるようだから聞いてくる。」と言って…戻ってくると作業を中止するように言われました。

上記に掲載した体験談は、平成28年8月に聞き取りを行ったものです。

市内 匿名希望(男性) <当時>小学校低学年(昭和10年生まれ):沼尾地区

北浦を挟んだ沼尾地区の対岸の釜谷(現潮来市釜谷)には、当時飛行場があって、下駄ばき飛行機…「赤トンボ」とも呼ばれた練習機が飛び回っていました。

その飛行機はフロートが付いていて湖面を滑走して飛び上がり着水したりできるようになっていて、二人乗りで一人は教官が乗っていたと思われます。

沼尾地区側の岸辺には大きな柳が沢山あったので、空襲の予報があると飛行機を隠すために向こう(釜谷)から飛ばずに水面をゴゴーゴゴーとプロペラを回しながら退避してきていました。それでもやっぱり分かってしまって、沼尾側に退避してきた飛行機が機銃掃射でバリバリと攻撃を受けているのを何回も見ました。動くものは何でも撃たれましたので、すごく怖かったですよ。

それから宮中野地区には、軍の送信所があって、台地にはアンテナが張られた兵舎があり、山の斜面の谷底には地下壕が掘られていました。その施設を狙って落とされた爆弾だと思うのですが、そこから200~300m先(今の鹿島神宮駅のすぐ近く)の田んぼに落ちたんですよ。それが大穴になって、池になってしまった。

あの辺はそれでなくても水が湧きだすところだったので、穴を掘るとそこが池になってしまうんですね。戦後10年頃まではそのまま池になっていました。

あと、田野辺地区の民家に焼夷弾が落ちて火事になったことがありましたね。夜中に、私が住んでいた沼尾の地区から見ると、家の裏山の夜空が物凄い轟音と光で煌煌と輝いていて、とても恐ろしかったです。朝、学校に行く前に、すっとんで見にいくと民家が2軒焼けてしまっていました。

上記に掲載した体験談は、平成30年12月に聞き取りを行ったものです。

避難所混雑状況