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おじいさん・おばあさんの戦争体験4

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記事ID:0050099 更新日:2021年3月29日更新

戦時下の鹿嶋でどんなことが起こっていたのでしょうか。当時の鹿嶋を知るお年寄りに体験談を伺いました。

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※【掲載方法】今住んでいる所・名前(もしくはイニシャル)/<当時>当時の年齢・当時住んでいた地区

市内 溝口栄子さん(女性) <当時>小学校低学年:泉川地区

私の家は飛行場※の近くにありました…目の前がすぐ飛行場で100m~150mくらいしか離れていなかったんじゃないでしょうか。家のすぐ傍には森の中の木を切って造った木製の零戦の格納庫もありました。山王台のあたりにはコンクリート製の格納庫が沢山ありましたが、うちの近くにあったのは、コンクリートが無くなってしまったのか、木で作られていましたね。

私の家には、兵隊さんが6人くらい下宿していました。泊まる人は決まっていて、まるで家族のように過ごしていましたよ。兵隊さんが泊まりにくると、「栄子おいで」と持ってきた金平糖や乾パンをくれて…物のない時代だったのでとても嬉しかったです。

彼らの親御さんが、ぼた餅や郷土料理をリュックサックに沢山詰めてうちに来たこともありました。親に下宿先に行く日を連絡していたんでしょうね。囲炉裏を囲んで息子達が外泊してくるのを待っていて…兵隊さん達が帰ってくると「食べろ食べろ」と御馳走をリュックから出すのですが、兵隊さんはそれをちょこっと食べたか食べないかで…ほとんど手をつけずに上官に持って帰ったりしていました。

うちに泊まっていた方が鹿嶋を発つ時に、零戦の風防を開けて白いマフラーをヒラヒラなびかせながら、我が家の上を2回くらい旋回してフウッと飛び立って行かれた姿を覚えています。大人になってから分かったことですが、うちに泊まりに来ていた零戦のパイロットの方2名は生きて帰って来られたようです。10歳ほど年上の叔母達は戦後もその方と連絡を取り合っていたようです…叔母をお嫁に欲しかったらしいという話を叔母達に聞いたことがあります。

一番怖かったのは、うちの上空あたりからアメリカの飛行機が飛行場を狙って攻撃するので、その薬莢が家の庭にバラバラと落ちてきた事です。父は戦争に出ていましたし、母はもう死んでもいいと思っていたのか、その様子を柿の木の下に立って眺めていましたね…。また、近くの格納庫を狙ってか家と防空壕の間の麦畑に爆弾が落ちたこともありました…不発だったので、助かりましたが、あれが爆発していたら防空壕にいた私たちは死んでいたと思います。家の周辺が危険だったので、神栖の下幡木や居切の親戚などの家に身を寄せたこともありました。

学校には奉安殿※が設置してあって、朝登校するとそこに一列に並んで教育勅語を暗唱しました。でも学校へ行ったって勉強どころじゃなかったです。サイレンが学校に設置されていて、区別されて鳴るんです。「ウーゥ ウーゥ」と鳴る時は予告。「ヴーーーーっ!」との鳴りっぱなしの時は、もう近くまで敵機が迫ってきている緊急時で、家が遠い生徒は先生が帰宅させず、学校の裏山の防空壕として使っていたヤギ小屋に避難することになっていました。学校の近くの家はそのサイレンを聞いて防空壕に避難したりしていたようです。

現代では考えられないけれど、戦中はどこの家も鍵を掛けず全部解放してあったので、アメリカ軍の飛行機が現れた時には、自分の家でなくても近くの家の中に避難したものです…「綿のものは鉄砲が通らない」と教えられていたので、私も友達と近所の家に逃げ込んでそこの布団をかぶったことがありますよ。

それから、学校の帰りに国末のあたりからB29と日本の飛行機が空中で戦っているのを見ました。B29が大きいので、まるで鷲とスズメが戦っているかのようでしたよ。B29は機体に傷を負っていて、ただ空中を漂っているような感じで、十数機の日本の飛行機がそれを取り囲んで押しているように見えました。一緒に見ていた友達らと「がんばれ!がんばれ!」と地上から手を叩いて応援しました。後から聞いた話では、民家に被害がないように海へ海へと誘導していたけれど、居切浜の民家にB29が落ちたということです。

終戦の日には母の実家(居切)にいました。その家にはラジオがあったので、みんな集まって来ていました。まだ小さかったので、「なんで大人は泣いているんだろう。」と思っていました。

終戦後、滑走路が残っていたので、アメリカ軍が飛行機で来る時にはその滑走路を使っていました…子ども心に一番みじめだと思ったのは、零戦などが格納庫ごと軒並みガソリンを撒いて燃やされてしまったことです。私の記憶では、アメリカ軍の方が来てガソリンを撒いていたと思います。その焼跡の土がまだ熱いうちにそこにイモを入れて焼いたり、その焼け残った炭を拾って使ったり…家の庭に落ちた薬莢を集めてあってそれを戦後売りに行ったりもしましたね。それから、進駐軍に自転車を貸したり着物を着て見せたりするとチョコやガムをもらえたので、子どもに着物を着せて飛行場に行く人もいました。今思えばあんな物乞いみたいな事なんでしたのかなと思いますが、アメリカ軍の飛行機が来ると皆集まってきていました。

「終戦の日」が来るとなんとも言えない気持ちになります。忘れてほしくないですね。テレビドラマなんかで戦争のものをやったりするけど「こんなんじゃないわ。こんなキレイごとじゃない。」と思いながら見ています。戦時中は本当に怖い思いをしました。今の若い人たちには分からないと思いますが、分からないから伝えなくてはと思っています。71年も経ったけれど、戦争だけは絶対にしてはいけないと思います。

(補足)
※飛行場…神之池基地
※奉安殿(ほうあんでん)…奉安殿とは明治24年に各学校に下賜された天皇皇后両陛下の御真影及び教育勅語謄本を「最も尊重に安置」するという文部省訓令により校内の一定箇所に設置されたものです。昭和6年に「新御真影」が下賜され、昭和12年頃には戦時色が更に深まり、鹿嶋市域の各小学校の校庭にも新たに下の図のような奉安殿が建設されました。

奉安殿

市内 宮沢長一さん(男性) <当時>10代半ば:泉川地区

私は、小学4年生の頃から飛行機にとても興味があって、『航空朝日』などの飛行機の雑誌を読んだり、東京大学の木村ひでまさ先生に質問状をお送りして、手紙のやりとりをしていました。先生は、私に本などを無料で送って下さって…その御蔭で私は皆が知らないような専門的な知識を身に着けていました。16~17歳頃になると鉾田にあった陸軍飛行隊に整備兵として入隊したけど、航空機の事は上官よりも詳しかったですね。

居切浜にB29が落ちた時は、鉾田から調査のために現地に行き、プロペラやエンジンなどを調査しました。エンジンを見た時には、油が全く付いておらずとても綺麗だったのでびっくりしました。日本のエンジンは、油がベトベト付いてましたからね。

また「おおばあ(曾祖母)が危篤だ。」という電報をもらって鉾田から鹿嶋に一時帰ってきたことがあります。その時、国末浜に墜落した米軍の飛行機が放置されているのを見ました。中にまだ遺体が入っていましたが風防が開かず、取り出すことが出来ずに、すごい臭いを放っていました。

戦争中苦労したことはあまりありませんでしたね。苦労したのは、鉾田陸軍飛行隊で空襲を受けた時くらいでしょうか…。

昭和20年の2月、休憩時間に日向ぼっこをしていると、ダークグリーン色のF6Fグラマンが低空飛行で物凄いスピードで飛んで来ました。急いで一人用の防空壕に逃げ込むと「バリバリバリ!」という体中が砕けるような轟音が鳴り響き、近くの松が根元から飛ばされました。続けざまに後から一機もう一機と計六機が現れて…そのロケット弾の攻撃で路上がえぐられて水が電柱くらいの高さまで噴き上げていました。上空に機影がないのを確認してテスト場に戻ると、格納庫の近くに人間の膝から下の部分が入った飛行靴がありました。いつの間にか、また10機余りが現れ、弾薬庫と燃料庫を攻撃し、下から入道雲のような黒煙が上がっていました。

その時に、命を守るためには、とにかく逃げの一手で安全な場所に逃げることが第一だと思いました。

ここに掲載した体験談は、平成28年8月に聞き取りを行ったものです。

避難所混雑状況