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鹿島速證講
鹿島速證講は鹿嶋を中心とした信仰行事の一つです。
護国院(鹿嶋市宮中)の弘法大師像を納めた厨子を背負い、鹿嶋市域を中心に旧鹿島郡下約120程の地区を、法螺貝を吹鳴らしながら「南無大師遍照金剛」の唱名も高らかに、速證講に参加する近郷の村々の人が巡拝して歩きました。服装は、昔は菅笠を冠り、毛布を背負い、脚絆に草鞋ばきであったと言います。
一日200~300名の僧侶や講社中の信徒(近郷より交互に参加)が従い、16日~18日間泊りを重ねながら、巡拝しました。旧暦3月1日が初日とされていました。(昭和36年からは4月1日に改められた。)
宿泊した家では「おつとめ」と称して、仏壇の前で般若心経、修業和讃を唱え、それからもてなしの馳走をうけました。
巡拝では各地区の寺院を訪れたほか、「お立寄り」「船祈祷」「追悼回向」(※詳細下記参照)等の祈祷が行われました。
護国院は降魔山護国院と称する勅願寺で護摩堂ともいい、不動明王を安置する真言宗の寺です。この寺は元明天皇の和銅二年(七〇九年)の創立で、始め鹿島神宮境内裏参道の中ほどにありましたが、霊元天皇の延宝二年(一六七四年)今の新町に移されました。
この行事は「大師板東」と言い安政年間より続けられ、明治五年明治天皇の認可により、「鹿島速證講」と改称されました。
明治初めの天狗騒動の時には、ひそかに、旧高松村佐田地区の個人宅を寺代りとして、厨子背負出し(出発)厨子背負こみ(結願)を行なったといいます。
ここで鹿島町史第2巻に掲載された昭和47年の速證講の道順をご紹介しましょう。
昭和47年
4月1日 神野・新田・根三田・下塙(泊まり)
2日 佐田・大久保(佐田)・木滝・谷原・鰐川・平泉・筒井・下幡木(泊まり)
治右エ門河岸より船で波崎へ(昭和30年からはバス)
3日 波崎東部(泊まり)
4日 海老台・浜新田・本郷・高野・別所・仲舎利・舎利・荒波・仲新田・波崎西部(泊まり)
5日 押上・松下・矢田部・日川一番・日川・柳堀・奥野谷・溝口(泊まり)
6日 亀甲団地(木崎上手)・国末・粟生・鉢形(泊まり)
7日 粟生浜・平井・押合団地・下津・小宮作・仲作・神向寺・明石・清水(泊まり)
8日 小山・荒野・角折(泊まり)
9日 青塚・天朝井戸・荒井・浜津賀・小志崎(泊まり)
10日 大志崎・下沢・堺釜・京知釜・飯島・高釜・田子沼(泊まり)
12日 下荒地・岡堀米・大竹・白塚・柏熊・諏訪青山・安房・徳宿・新田(泊まり)
13日 秋山・塔ヶ崎・鉾田(泊まり)
14日 烟田・田中・安塚・和田・梶山(泊まり)
15日 井ノ塙・阿玉・大蔵・田塚・札・江川(泊まり)
16日 中居・上幡木・志崎・武井・額賀・掛崎・津賀・塙・花ノ山・小見・春秋(泊まり)
17日 立原・棚木・居合・奈良毛・中・林・清水新田・田谷(泊まり)
18日 田野辺・沼尾・猿田・山ノ上・須賀(泊まり)
19日 爪木・大船津・下生・町うち(大町・角内・桜町・仲町・新町)
鹿島神参拝御本地結願目出度解散
この日程を見ると、護国院を出発したのち、近郷の神野から回り、二日目には現神栖市の下幡木から船で波崎方面へ向かい、波崎地域を巡拝したのち旧神栖町の村々を回って鹿嶋市域に入り、海岸沿いの村々を巡拝しながら北上して、鉾田市域の村々を巡ったのち、今度は湖岸沿いに鹿嶋に入り、村々を巡って、護国院に戻って来たようです。そして、最後に鹿島神宮で参拝をして解散になりました。
※「お立寄り」
申込者の家内安全、商売繁昌を祈り修業和讃を唱える。申込者の多い時は、寺院等で合同立寄りを行ない接待のご馳走などをつける。そうした場合は、奉納の手踊りなどをして遊山気分を味わった。
※「船祈祷」
海上安全と豊漁を祈祷するもので「お立寄り」と異なるところは、船の中央に厨子を安置し、酒を供え、船を左廻りに廻ることと、船首に酒をかけて清めるなどである。
※「追悼回向」
昨一年間に死亡した役員及び講社員のうち、申出のあった家に追悼和讃をあげ供養する。