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「下津」地名の由来と歴史
下津(おりつ)の地名の由来
大字下津の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によれば「鹿島神宮神官の禊ぎの場として、下浜へ下りたことによるものと考えられる」とあります。
また、『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*1には次のような考察があります。
「津とは、港と同じく船の出入りする処である。鹿島の真下の津というところから、名付けられたものであろう。」
■注
*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日
下津の歴史
下津集落を地理的に見ると、標高6mから13mの「高堀(タカボリ)*2」の成因は、沢山からの湧水によるものですが、これと同時に東北風による飛び砂のために、北に低く南に高い高堀が出来ました。この頃までに、高天原からの流水によって、末無川(すえなしがわ)が形成されると同時に、末無川の流出土砂によって、三角形の扇状地が6mから14mにかけて造成されました。人々は末無川の造成した扇状地と台地の根岸に居住し始め(字「根屋敷」「普賢院」「神地」「沢下」など)、次いで海岸に進出していきました。
小宮作と高堀と末無川の扇状地に囲まれた地は、沢山よりの湧水などによって沼地になりましたが、小宮作との境で突破口を作って流出したので、字「北の内・「阿多里(アタリ)」は干上がって水田化されました。南側の「谷原」にも最後まで末無川が流下してできた湿地があったので、これも水田化されて下津の人々の食糧確保に役立ちました。「谷原」砂漠の中に点在する水田は、食糧増産時に畑地と共に開墾されたもので、田毎に小さい水溜まり(池)を設けて耕作してきました。
台地を見ると、集落の南~南西側は砂地で畑地には不適でしたが、西側は洪積台地で字「台畑」から「西アラク」などが広く開墾されました。字「汐宮」付近も畑地になりましたが、集落から距離が遠すぎたことや、薪炭材としての松林の利用価値が大きかったので、山林の状態のまま終わりました。
*2 高堀(タカボリ)…鹿島の海岸で、汀線に平行してある砂山を「高堀」といいます。
生産と流通
末無川は3筋に分れて高天原の土砂を流出しました。中央の川筋は絶えず先進して「高堀」に接続し、東北に向かった川筋は、両側の流出土と幅広い傾斜面を作り、東南に向かった川筋はやや急な斜面を作って終わりました。したがって、水田は東北から南西へと伸びる細長い部分だけでした。水田の東側に8mから10mの砂丘ができた以外は、5mから6mの平坦な砂原で、松林になり畑地として利用されてきました。小さな天水田も作りましたが、降雨で困り、干ばつで困りました。
水田から砂原への排水路である川は、大雨の時だけ川となり、普段は水無しの川でした。末無川の名前の由来がこれで、大雨ならば川になりますが、平常は50mも流れると砂にしみて、川の姿が消える末の無い川「末無川」と呼ばれました。
こうした状況の中で、耕地としては、小宮作との間に少しばかりの水田を開き、沢山の清水を唯一の農業用水としていました。用水路の清掃は春秋2回行われ、農家・非農家に関わらず全戸参加したと云います。
南の浜堤内は砂地の荒れ地であり、すぐ上の台地は高天原の地続きで小砂礫が多く、畑耕作に適していないので、畑地の開発は小宮作寄りの台地から神向寺にかけての、飛び地耕作にならざるを得ませんでした。こうした飛び地を持っているということは、下津の農耕経済の苦しさを物語っています。
戸数を見ると、明治時代は37戸でしたが、昭和40年代になると63戸と増加していますが、これは移入戸数による増加です。そして、農耕によって生計を立てることが無理だということで、増加戸数は皆、農業以外の商工業に従事していました。
下津の旅館を訪れた人々
下津集落は農村でしたが、鹿島に近いという地の利を得ているため、海水浴場として利用されてきており、旅館もありました。『鹿島町史 第3巻』によると、明治37年(1962)の宿泊日数は100日余りで、宿泊者は90余人でした。当時の宿帳から職業を見ると次の通りです。沢山の職業が行商に出歩いていた様子が伺えます。
・鋳掛業(鍋釜の穴を修理する人)
・大工
・落花行商(千葉県より来た)
・カンショウガ、トウガラシ売り
・金物商
・稲扱商(せんば売り)
・研ぎ屋(ハサミ、包丁などを研ぐ人)
・書家
・按摩
・臼ほり職(木臼をほる人)
・お茶行商
・時計なをし
・灸点(お灸をすえる人)
・箒商
・こうもりなをし(洋傘を修理する人)
・万穀(玄米からもみ殻やゴミなどを分別する道具)修理
・のぞき目がね
・売薬業(富山県より)
・古物商
・土ずるす業(土臼…粘土で作った臼、を作ったり直したりする人)
・附木商(つけぎ…松・桧の薄い木片の一端に硫黄を付けたもので、火種より火を他のものに移す時に使う)
・種子屋
・石工職
・豆腐屋職
・干物買出し
・莨商(煙草商)
・菓子職
・石臼の目立て(粉をひく石臼の沈線を掘る人)
・瀬戸物つぎ
・ラオ屋(「ラオ」は刻み煙草を吸う「キセル」の竹の部分で、ラオを取り換える人)
・メガネ屋
・屋根茅売り(稲敷郡より)
・漁師(銚子からイソ浜へ)
・醤油製造(銚子から那珂湊へ) など
教育と文化
明治40年(1907)、石津幸二の妻「石津か祢」が、下津の自宅に裁縫所を開設しました。裁縫を教える傍ら、行儀作法などの花嫁修業もさせました。地元下津はもとより、近隣の小宮作、仲作、明石地区内の子女が通い、その指導を受けました。昭和30年(1955)に50年の長きにわたり子女の教育指導にあたった裁縫所は閉所しました。
文化財と名所・史跡
末無川
正しくは「すえなしがわ」と読むところを、地元では「すいなしがわ」と呼ばれています。
高天原の松林の中より湧き出る清水が流れて小池となり、さらに数メートルほど水は流れて地中に入って行く末はわからなくなったことからその名がつきました。片目の魚が棲んでいたとも云われています。
『常陸国風土記』に「松林自生、椎柴交雑、既如山野、東西松下出泉可八九歩清淳大好云々」とあるのは、ここであるとされています。
末無川は、現在は枯れてしまい、昔日の面影は見られなくなってしまいました。
高天原
旧鹿島町から下津海岸へ行く途中、鹿島灘を望む砂原の松林一帯を高天原(高間原)と呼びました。昔、鹿島の大神がこの地方の鬼族と戦い、征伐した所と云われています。
江戸時代後期の国学者であり鹿島神宮の神官であった北条時鄰(ホウジョウ トキチカ)が著した『鹿島志』の挿絵には、当時の高天原の様子が描かれています。
『鹿島町史 第2巻』には昭和30年頃に撮影された高天原の写真が掲載されています。時鄰が描いた高天原の面影があります。
現在、高天原は住宅団地になっています。
鬼塚
高天原の東方にあって、東西に長く85m、高さ10mの塚です。
昔、鹿島の大神が東征の折り、従わない鬼族を退治して、その首を埋めたので鬼塚と云い、その時たくさんの鬼の首で染まったので、今以てその砂が赤いのだと云われています。
(鹿嶋市郷土かるたより)
また、『鹿島治乱期記』によれば、後柏原天皇の大永4年(1524)、鹿島城主鹿島義幹が同族とここで戦い敗れて戦死したとも伝えられています。
参考:「戦国時代の鹿嶋」
明治維新前までは、鹿島神宮では新嘗祭を鬼塚の上で執行したと云われています。
参考文献
- 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第二巻』昭和49年12月20日
- 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日
- 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
- 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
- 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日