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「神向寺」地名の由来と歴史
神向寺(じんこうじ)の地名の由来
大字神向寺の地名の由来は、集落の菩提寺・神向寺に因むものです。
『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*1には次のような考察があります。
「(鹿島)神宮の鬼門除けに寺を建て、之を神に向かう寺と名付けた。その寺の所在地と云うことで、集落名が出来たものであろう。」
集落は、等高線32mと33mの間にあり、寺院の南側が居住区になっています。寺を中心として名付けられた字名として、寺の後の山林や原野は「後山(ウシロヤマ)」(字後山には現在は「茨城県立カシマサッカースタジアム」があります)とか「寺後(テラウシロ)」と呼び、「西久保」は寺の西にあるからで、「南久保」も同様です。字「前」は寺の前の意味であり、「前」に続く山林が「前山」です。
■注
*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日
神向寺の歴史
神向寺は、標高39mの台地が東に低くなっており、鹿島から明石海岸の一の鳥居に行く道に沿って、鶴賀山神向寺を中核に塊状集落を成しています。道路が微高地を通り、寺が建立されると、集落から北への猿田道に沿って、数件の家が住み着き、やがて、全体としては塊状の集落となりました。
神向寺由緒によれば、神向寺の創建は聖徳太子と伝えられ、鹿島山仁多寺として建立され、もともとは、鶴居川のお山様(仲作との堺をなす峰山)というところに建てられていたといいます。法相宗でしたが、鎌倉時代に時宗に改め、鶴駕山千手院神向寺と改称し、現在の場所に移されたといいます。
生産と流通
神向寺の集落は、
1.水田を持たない畑作集落であった。
2.鶴賀山神向寺という寺院持ち、時宗である。
3.かつて、「要石」という銘柄を持つ酒造元があった。
などの特色を持つ集落です。
海岸台地に立地し、海を持たない集落でしたが、飛び地の「仲作」を持ってからは、製塩・漁業などもしたようです。
当時の海岸は、鶴居川を境にして、南は小宮作、北は明石でした。明石は、南北に伸びる集落の地先が海岸であり、戸別に製塩を営んでいた当時にあっては、神向寺に分割できる海岸地は現実的にありませんでした。一方、小宮作は海岸に沿って南北に長く、集落の実質的な構成範囲は「大川沢」以南であり、大川沢と明石の間は無人の境でした。ここに着目した神向寺は、苦心の末に、小宮作にあった塩釜3か所のうち1か所を手に入れ、さらに「大川沢」と明石の間の海岸を確保することができました。
海のない神向寺村が、海の幸である塩と魚貝を求めて、海岸の一角を手に入れて入植したのが、仲作という水田も何もない砂浜の飛び地でした。しかし、神向寺にとっては、魚貝を採り、製塩が自由にできる重要な地でした。神向寺からの分家と移転及び移住によって構成されたのが、仲作の集落です。
神向寺の水田は、鶴居川右岸の細長い棚田だけです。用水は字峯山際の湧水と鶴居川に依存していました。
田谷沼の干拓
神向寺に生まれた神向寺郁之助は、明治40年(1907)から同43年(1910)にかけて、田谷沼新田土地改良干拓事業を行いました。当時の田谷沼は排水が悪く、極めて原始的な水田でしたが、郁之助は私財を投じて干拓し、50町歩余りの美田にしました。須賀地区にはその偉業をたたえる頌徳碑が建てられています。
参考:近代の干拓事業
教育と文化
波野小学校沿革誌抜粋によると、明治22(1889)年3月、波野尋常小学校として開校し、当時、神向寺の寺院を仮校舎にあてていました。そして、明治31年(1898)5月に新校舎が完成して現在の位置に移るまでの9年間に、120名の卒業生を出しました。
文化財と名所・史跡
神向寺
神向寺地区の寺院は「鶴賀山千手院神向寺」の1か寺だけで、本山は神奈川県藤沢市の遊行寺です。宗派は時宗であり、鹿島郡では時宗はこの寺だけです。
山門は宝暦9年(1759)、鹿島神宮境内にあった古い楼門を譲り受け建立したものと言われ、豪壮な桃山調です。山門前の参道は200mあり、かつては縁日でこの参道を使って競馬が盛んに行われていました。神向寺山門は、昭和46年(1971)に市指定文化財になっています。
寺宝である仏像「銅造如来坐像及び菩薩立像」は平安時代前期(9世紀)に作られた小金銅仏で、平成14年(2002)に茨城県指定文化財になっています。
伝承・伝説
鶴居川
神向寺には鶴居川という小川があります。昔、鶴賀山神向寺の観音様が鶴の背に乗って山鳥の案内でこの小川のほとりに天より降りたといいます。この伝説の由来が川の名となり、山号となったようです。
また、一説には天保年間(1830-1843)には鶴がたくさん遊んでいたともいいます。(『鹿島町史 第2巻』より)
施設
茨城県立カシマサッカースタジアム
神向寺字後山に所在。全席屋根付き、客席数1万5780席のサッカー専用スタジアムとして、平成5年(1993)5月に竣工しました。平成13年(2001)に3分の2が屋根付き、約4万人を収容できる新スタジアムに整備され、この新スタジアムで平成14年(2002)にワールドカップが行われました。
(「鹿嶋市郷土かるた」より)
参考文献
- 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第二巻』昭和49年12月20日
- 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日
- 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
- 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
- 鹿嶋市波野まちづくりセンター(波野公民館)『波野の宝』平成18年2月