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「山之上」地名の由来と歴史
山之上(やまのうえ・やまね)の地名の由来
山之上は、一般的には「やまのうえ」と読まれていますが、この地方の人々は「やまね」と呼んでいます。集落は、坂戸神社と竜会城跡のある舌状台地に位置することから、山の上つまり山のね(峰)の集落を意味するかとも考えられます。
山之上の歴史
『常陸国風土記』には、「別に神の郡を置きき。其処にある所の天の大神の柱、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて、香島の大神と称す」とあり、山之上の坂戸の地に鎮座する坂戸神社が「坂戸の社」です。
坂戸神社境内から字孫田・波場・五本松・西にかけて、縄文時代中期から古墳時代、奈良・平安時代にかけての集落跡が発見されています。山之上は周辺の田谷・猿田・田野辺と共に、往時は海の一部であった田谷沼をめぐるの集落の一つです。
『新編常陸国誌』に、「坂戸、波場、西ノ三地を有ス[又ヲサト云ヘル所アリ、弘安太田文ニ、南條中村内小佐トアルモノ是ナリト云フ]、弘安太田文ニ、南條中村内山ノ上トアリ、」とあります。山之上は、三つの地区からなっていて、北から坂戸・孫田(波場)・西と並びます。これらはいずれも居住地を区分したもので、坂戸には坂戸神社が鎮座し、孫田(波場)には長徳寺が所在し、西には国土神社が鎮座します。「ヲサ・小佐」は字小笹(オザ)として現存し、旧山之上村の古屋敷跡に隣接します。
大字猿田の西側から田谷沼に沿って続く谷津の一画、大字宮中との地続きに、旧山之上村の古屋敷跡が、現「字五本松」にあって、庚申塔が建立され、寛政12年(1800)の年号が刻まれています。山之上村はこの頃か、対面する北浦の舌状台地の竜会城跡と坂戸神社の間に集落ごと移動し、坂戸村と隣り合いました。坂戸村は、坂戸神社に附属する村で、神職である坂戸祝(ほうり)一族や関係者が集落を構成(坂戸七軒)し、また、鹿島氏旧臣の土着もありました。やがて坂戸を併せて「山之上村」と一村を構成しました。
現在の山之上集落と南面する字五本松との間には谷津田*1が形成されています。谷津田には、字御手洗・清明坊等信仰に関わる地名もあって、墾田の背景なども窺えます。
元禄15年(1702)の石高は185石8斗2升2合でした。
■注
*1 台地と台地の間が谷のように見え、先が細くなりながら台地に入り込む場所は「谷津」と呼ばれ、そこに広がる水田を「谷津田」と言います。下図は航空写真で見た山之上地区の「谷津田」です。
生産と流通
山之上の農業の特徴は、昭和30年代まで、葉煙草生産農家が約3分の1を占めていたことです。それ以外の畑の農産物は、大麦、小麦、サツマイモです。大麦はほとんどが家畜や養豚の飼料になりました。戦後のサツマイモ生産は、比較的安定した収入源となり、南京袋と言われた麻袋に収穫したサツマイモを詰めました。1俵13貫500匁で、中には600俵から700俵を収穫する精農家も見られました。「芋畑2畝あれば土地が買える。」と言われるほど、芋の市場価格は良かったのです。
一方、谷津田の墾田に努めたため、耕作面積も比較的に広く、戦後の農地解放までは、一戸当たり平均6反歩を所有し、耕作していました。水田での農作業は、急傾斜の農道が多く、馬車はほとんど使用できなかったため、牛馬の背に荷鞍を付け(「付け荷」という)、その上に乾燥させた稲束を積みました。1回で72把を背負わせたといいます。庭先に積み上げられた稲束は、夜間に足踏み機械で脱穀作業をしました。牛馬を持たない農家では、家族総出で「背負っ肩(しょっかた)」という背当てに、1回24把を背負って運びました。大字田谷方面からの連絡路以外は、全てが坂道という道路事情が厳しい労働条件を生みました。
大字須賀方面から、山之上の集落に向かう唯一の橋が、西はずれの水田に架かっている「作橋(さくばし)」という橋で、「物を作る橋。そのために牛馬が渡る橋」という意味の橋と言われています。作橋を渡る道は、坂道となって竜会城跡を横断し、集落を抜けて大字田谷方面へ至ります。田谷との大字境周辺は、馬の背状に整形され、田谷に入って切通し状になります。中世平山城の雰囲気を留めています。作橋の「さく」は、城址の南側に入り込む谷津田を守るための「柵」の意味とも考えられます。
戦前の米穀の反当収穫は、7俵が平均値であり、小作農では、この収穫から2俵の小作料を払うと、残りは5俵となり、辛苦の長い年月が続いていました。
集落は、標高39mから37mの台地上にあるため、井戸はかなり深く掘らなければ地下水脈に通りませんでした。ほとんどの家は「つるべ井戸」が主流で、水汲みは女性にとって難儀なことでした。
教育と文化
高野家の娘が信州長野に嫁いだあと、夫の急死後、嫁ぎ先の野村姓を名乗り、山之上の実家で家を建ててもらって、裁縫所を始めました。毎年10月末から翌年の2月頃までの農閑期に集中して、猿田、田谷、山之上、清水新田辺りからお針子が通ってきました。裁縫の技術指導はもとより、女性としての礼儀作法等々、地域の女性教育に貢献しました。
助産婦、高野とみも、この地域において特記すべき女性です。千葉県佐原市の郊外に生まれ、同市内の病院に看護士として勤務。山之上の高野家に嫁ぎ、助産院を開設します。助産師として、沼尾、須賀、山之上、田谷、猿田、清水新田と広範囲な地域において新生児を、大正15年(1926)から昭和40年(1965)まで取りあげました。
文化財と名所・史跡
坂戸神社
大字山之上字坂戸に鎮座する鹿島神宮の摂社です。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。鹿島三社(鹿島神社・沼尾神社・坂戸神社)の一社です。昭和61年(1986)に、鹿島神宮・沼尾神社・神野向の郡家跡と共に「鹿島神宮境内附郡家跡」として国史跡に指定されました。
鹿島には、昔から「三社詣り」という行事があり、鹿島の「天の大神の社」の鹿島神宮に参拝し、次いで鹿島の北の大地を横断して、台地の根岸にある御手洗で身を清めて、谷津田を渡り、山坂を登って、坂戸神社に参拝します。次は、猿田を通り、田谷集落の西側の道を通って沼尾神社へ向かいます。神社前300mくらいの参道に出て、参道を西に進むと、椎・樅(モミ)・杉・熊笹につつまれた社前に達します。三社参りを完了した証に、沼尾神社境内の、熊笹を持ち帰るのが習わしであるといいます。
「鹿島三社詣りの古道」は現在「鹿嶋 神の道」としてウォーキングコースの一部にもなっています。
参考:悠久の歴史と豊かな自然を体感!「鹿嶋 神の道」を歩こう!(商工観光課のページへ)
竜会城跡
大字山之上字龍會(リュウカイ)に所在します。戦国時代末期、築城半ばにして廃城になったと伝わります。鹿島城の北方約2kmの、舌状台地の西端にあって、佐竹氏の南下に備えた出城と考えられますが、舌状台地東端の起点に、幅5m余りの横断壕があって(現在は、東西への道路が通り、馬の背状に整形されている)、台地全体を城館とする計画であったかとも推察できます。
参考文献
- 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日
- 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
- 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
- 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
- 公益財団法人鹿嶋市文化スポーツ振興事業団 鹿嶋市どきどきセンター『マンガ かしまの歴史2 藤原鎌足 ―名をあげた藤原の祖 中臣鎌足―』令和4年3月31日