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「武井釜」地名の由来と歴史

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記事ID:0072390 更新日:2023年7月26日更新

武井釜(たけいがま)の地名の由来と歴史

 大字武井釜の地名の由来は、『大野村史』によれば、江戸時代初期には武井浜といわれていました。集落形成は分村の一形態で、北浦台地側の武井村からの移住、分村です。
 一説には、江戸時代の石碑に保久釜村の刻まれたものも見られ、これから武井浜と保久釜から、武井釜の名前が生まれたともあります。
 「武井釜」の村名が示すように、中世から江戸時代にかけて製塩業が盛んでした。現在の集落センター東の道を挟んだ場所は伝承として「根道(ネミチ)、根屋敷(ネヤシキ)、砂」等の俗称が残り、また、「前釜、中釜、後釜、塩つけ坂」や武井集落から塩焚きに下りてきた等の草分け伝承、製塩に関する地名伝承が残されています。
 海岸の延伸と合わせて高堀の形成により海岸部の狭い沖積地は、少しずつ開墾されて、掘り下げ水田として利用されていきました。
 これらを裏付けるように、根屋敷の下の水田からは、江戸時代初期の海岸線の痕跡が見られ、塩焚き場と言われる場所からは字後と前の2ヵ所から多量の炭や焼土、鹹水溜(かんすいだめ:塩水を溜める場所)、柱材、杭、寛永通宝が出土しました(武井釜製塩遺跡)。

武井釜の地図

生産と流通

 漁業と農業を主体とした生産形態を持ち、不漁、冷害時には生活は困窮を極めましたが、平時には海と山林、田畑があり、比較的安定した生活が補償されていました。
 海岸の漁業は、元禄時代に地引き網漁が普及し、地引き網の不漁、豊漁が生活の哀楽を左右しました。こうした時代が江戸時代から昭和20年代後半まで続きました。
 近世地引き網の網元は、縫右衛門地引きと安重(あんじゅう)地引きの二張がありました。安重地引きは、人手を下総、上総に求め、多数の水主(かこ:水夫)を雇いました。当初これらの人々は武井釜の浜に居住していましたが、安重家では、明治期に、不漁時に備えて原(武井釜原)に屋敷を与え、開拓と漁業の2本立ての経営にあたり成功を得ます。これら入植した水主が、現「共栄区」の草分けとなりました。
 こうした経営努力から安重地引きは、鹿島浦屈指の大地引きとなり、網元としての地位を保ちました。
 その後、水産加工や販売に力を入れましたが、昭和30年代には浜は生活の場に終わりを告げ、田畑の稲作、甘藷栽培に移行しました。
 海岸沖積地は水田等として利用されましたが、大雨等の災害に度々見舞われていました。寛永8年(1631)の検地では、青塚村に含まれていたので不明ですが、元禄の検地では、総石高がわずかに61石6升でした。
 畑地は、字元畑と字寺畑が主な耕作地でしたが、戸数・人口の増加により「大塚根、ツルハシ、小屋、後」等が開墾されていきました。明治40年代では、ほぼ現在の様相になり、海岸砂丘の発達により、水田の開墾用地が増加し、面積は倍増していきました。
 漁業は食用と肥料として活用され、豊漁時は活況を呈し、肥料として干鰯の需要は大きく、田畑の生産力も増加していきました。
 山林は、薪、用材として重要な役割を担い、冬場の現金収入の中心でした。大部分は武井道を通って北浦の河岸に下げられ、東京・銚子方面へ販売されました。一部は、浜の粕焚き場(鰯〆粕加工場)や家庭の燃料になりました。
 その他、戦後になって鍛冶屋、船大工、桶屋があり、集落内の需要を賄っていました。醤油屋は1軒、一般雑貨や酒、塩、煙草などの当時専売品を商った店もありました。
 戦後の畑作は、甘藷栽培が主体になり、生産加工の澱粉工業の発達を促し、3工場がありました。

教育と文化

 明治22年に大同・中野村が誕生し、武井釜の円満寺に分教場が置かれ、後の大同村立第四小学校になり、大正5年まで続きましたが、併合されて荒井小学校(現在の大同東小学校)になりました。
 明治・大正・昭和にかけて私塾は見られませんでしたが、お針所が1軒ありました。
 戦後、円満寺の境内では映画が度々上映され最大の娯楽でした。円満寺は昭和23年に廃寺となり、現集落センターとして改築されています。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年4月1日 

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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