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二、鹿島洋(なだ)の妖火

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記事ID:0064880 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 天保の初め(1830年)ごろ、銚子に住んでいた飛脚が、水戸に向かう途中に鹿島灘沿いの太田新田(現在の茨城県神栖市太田地区)で、海から上がってきた「妖火(ようか)」に遭遇して退治した、という逸話が紹介されています。

読み下し文

天保の初頃、下総銚子湊尓、剛気早走り能飛脚夫阿り。或時至急の用向ニ付、大いそぎに天、水戸城下迠可行旨被頼しに、此日ハ暴風雨尓て然もはや、夕六ッ時奈り。常の脚夫ならば中々出立成可多き越、例の剛膽もの由ゑ、少しも辞せず打立。波崎の渡船も屈強の舟子三人尓天、辛らふし天渡り、これより常陸の海岸を歩み由くに、矢田辺村を過き天、太田新田尓も近支頃、巽沖方一圜の妖火出現して、次第に陸路尓近寄ると、見る間尓浪を放れ、陸尓上り砂上を走里廻り、終尓脚夫の前後をめぐれるを、能く見るに、其頭ともお不しき所者、小児の持遊ぶ神楽獅子能頭不ど尓(に)て、色ハ青赤く光線者無く、長く筋を引支、い可尓も忌はしきもの尓天、早きこと鳥奈どの、走るに似天、足も阿る可と思ハるゝさ満也し。此脚夫、常に長脇さし能刀を佩び、又大い奈る鉄の分銅つきたる、長き鎖を腰尓纏ひ居多流ガ、妖火の餘りうるさく足もとに来り天、往先を妨る由ゑ、可の分銅くさり越手繰り、力にま可せ、怪物の頭とお保しき所へ投つ介多るに、手こ多へして妖火ハ、微塵尓く多け散ると見えしガ、おの連も其侭気絶して、夫より以後の事は更尓知らざり志尓、暁近起頃此村の者ガ濱辺見廻りに来り。倒連たるさまを認め、助介られ、稍々蘇生志天、水戸尓至り用を弁ぜしと。一生かゝ累恐怖き事は、な可りしと。後尓下生直勝尓語りし由、同人より話也。

現代語訳

 天保の初め(1830年)頃、下総国銚子湊(現在の千葉県銚子市)に気が強く走るのが速い飛脚がいた。ある時、至急の要件があり、大急ぎで水戸城下(現在の茨城県水戸市)まで行くように頼まれたが、この日は暴風雨でしかも既に夕六つ時(午後6時ごろ)であった。普通の飛脚ならなかなか出発できないところを、この飛脚は肝が据わっているので、少しも躊躇せずに出立した。

 波崎(現在の茨城県神栖市波崎地区)の渡船も屈強な舟子が3人いたのでかろうじて渡り、ここから常陸の海岸を歩いていくと、矢田部村(現在の茨城県神栖市矢田部地区)を過ぎて、太田新田(現在の茨城県神栖市太田地区)に近づいた頃、南東一帯の沖の方から妖火が出現して、次第に陸に近づくと、見る間に波を離れ、陸に上ると砂上を走り回り、ついに飛脚の前後を巡りだしたので、よく見るとその頭と思われるところは、子どもの持ち遊ぶ神楽獅子の頭ほどで、色は青赤く光線はなく、長く筋を引き、いかにも忌まわしいもので、速さは鳥などが走るのに似て、足もあるような様だった。

 この飛脚は、いつも長脇差しの刀を帯び、また大きな鉄の分銅がついている長い鎖を腰に纏っていたので、妖火があまりにうるさく足元に来て行き先を遮るので、この分銅鎖を手繰り、力にまかせて怪物の頭と思われるところに投げつけると、手応えがあって妖火は微塵に砕け散ったように見えたが、自分もそのまま気絶してそれより後のことは分からなかった。

 明け方近くのころ、この村の者が浜辺を見回りに来たところ、倒れている飛脚を発見した。助けられた飛脚は、しばらくすると目を覚まし、水戸まで行って用を済ませた。一生のうち、このように恐ろしいことはなかったと、後に下生直勝(しものうなおかつ)に語った。この話は直勝から聞いたものだ。


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