本文
九、明治期の鹿島の不況
記事ID:0050254
更新日:2022年1月6日更新
(『櫻齋随筆』より)
ここでは、明治15年に起こった経済不況について書かれています。
読み下し文
十五年、諸国ともに全國不融通の趣なるが、本郡などの、不融通の原因は、
- 第一は、米価下落に付き、米をあまた貯蓄の者は、「高価にならば、売り出さん」とて囲い置き、容易に手放さず。それ故に、普請も衣類も、一切見合おり。
- 第二は、昨冬以来、濱方不漁つき、鰯は勿論、諸魚とも。それ由ゑ網持ども初め、漁者一同困難也。
- 第三は、昨秋、畑作干損。別して大豆などは、半毛に取上らず。其上に、本三月至り、菜種油大いに価下落。
- 第四、本県下鴨神社、富許可になり、猛深き連中、鬮(くじ)を買うもの本郡中にて、毎月三千圓余の掛金を出すと云う。鬮(くじ)一本の価、金六十銭づつ也。
- 第五は、商人共、昨年中高価にて問屋むきより仕入多る物品、大方直下げ故、(東京初め諸方とも、物品下落、)大不都合のみならず、買人更に無し。
- 第六は、金貸業も借用人のみ多く、利子さへ払ふ人無く、故に質渡世人などは、別して難渋の趣。
- 以上、六の原因にて、農工商とも、困難は云うに語るに述難し。況や、貧士族輩をや。但本郡のみならず、県下一統の窮迫也。さながら、米価の下落にて、小民は、少しく息をつくなり。
解説
明治13年~14年に好景気に沸いていた鹿嶋を「五、明治初期の鹿島のバブル」でご紹介しましたが、翌年15年には全国的な不況に伴って経済不況が起こっていたようです。
則孝公は鹿島郡の経済が滞っている6つの原因を捉えて書き記しています。
- まず第一の原因は、「米の価格の下落」です。米の下落により、米を貯蓄している者ら(米問屋などでしょうか)が「高値になってから売ろう。」と米をかかえ込んでしまい、手放さない状況となりました。米が売れず収入が減るために、皆服を買ったり家を修復したりするようなことを見合わせるようになります。
- 第二の原因は「不漁」です。明治14年の冬から、鰯はもちろん他の魚も不漁が続いていたようです。
- 第三の原因は、「不作」です。干ばつに見舞われて、畑作の大豆などの作物が不作となったほか、菜種油の価格が大きく下落したと書かれています。
- 第四の原因は「富くじ(宝くじ)」です。県内の下鴨神社で富くじの販売が許可されたことにより、鹿島郡の人々の中にもこの富くじに金を費やす人も出てきたようです。1本6銭のくじが、鹿島郡内で三千円も売れたということですが、1円=100銭ですので、5万本も売れたことになりますね。
- 第五の原因は、「物価の下落」です。商人たちが前年に高い価格で仕入れた商品の価格が大幅に下落し、更に不況によりその商品を買う人もいない状態になります。
- 第六の原因は、「金融不安」です。金貸し業では、お金を借りに来る人ばかりが多くなり、利子も支払う人がいない状態だったようです。
- 〔意訳〕
この6つの原因により農工商すべてが苦しい経済状況にある。ましてや貧しい士族らについては言うまでもなく苦しい状況だ。これは鹿島郡だけでなく、県下に共通した窮状である。米価の下落によって庶民はため息をついている。