本文
五、明治初期の鹿島のバブル
(『櫻齋随筆』より)
ここでは、則孝公が見た明治初期の大漁・豊作に湧く鹿島の民衆の様子が記されおり、当時の活気が伝わってきます。
読み下し文
世の中は何事も祝ふべきものにて、(1) 十二年の秋まで鰯の漁業、僅少なるゆえ大漁を祈りて、左の十八里とは、鹿島郡海岸、南北への里程也。
十八里、 鰯に狭し、 秋の浜、 と口号せしに程無く、少々つゝ漁あり。
翌十三年一月三日より大漁、十四年一月四日より猶多し。
明治十四年、辛巳、一月四日より鹿島浦、鰯の大漁獲あり。八日まで日々つづき、平井村などにては、わずか四日間に、八万円余りの漁ありと云う。各村々も皆、大金を得たり。後日に聞けば、郡中各村の、惣漁業の得金は、およそ、百萬円也と云う。
予、亦、祝して、
わだつみ(大洋)の 捧ぐる贄は 寄る波の 玉の数より いを(魚)のさわなる
年ごとに 海士(あま)の煙の 立ちそうは 浦の網引きの 幸にぞありける
(2) 斯く各村、大金融通よき故、随て神宮へ参詣人も許多にて、酒店、旅店などは、昼夜となく引もきらず。
酌取女共も東京、其他より来るもの、一戸に、四五名づつ、居らぬはなく、一日に一名にて、金五円ならしの取得ありと云う。
去れば、夕よりは、絃音の絶間なく、旅宿にては、二階の新築家作の、建増しするもあり、
又、腕車(人力車)なども、にわかに、三十輌も出来たり。
水夫などは、翌朝の出船を、急ぐために、深夜に帰村するは多く、僅かに一里も無き里程を、車價に壱円遣し「つりは入らぬ」とて、断りくわえ車夫に、酒食を与へて乗るもあり。
或時は、五・六輌の車連ねて、大舟津村へ下り、潮来村へ早舟にて、行くもあり。
事後の事には注意せず、金円を遣ひ捨ること、水の如く也。
今回の事は、只、大漁のみならず、三・四年以来、諸作(作物)、よろず、豊饒なる上に、謄貴にて、
農家は各、大金を得多るに任せ、驕奢贅沢にて、無用の翫弄物まで、買込む人多く、
その潤澤にて、商戸(商家)も又、益を得ること多し。
依て、宮中の商人は勿論、東京・佐原などより数名の旅商人、諸国よりも同じく、数百名、一ヶ村に四十名も、落合うことありと、入込むよし、或商いは、舶来物品持ってくるにて、浦方、一巡廻にて、金三百円を得多りと、予可、邸に来て直話也。
解説
(1)では、明治12年の秋まで漁獲量が少なく、則孝公が「十八里(鹿島郡の海岸南北十八里)、 鰯に狭し 秋の浜」と大量を祈ったこと。その後明治13年1月3日に大漁、翌14年1月4日~8日までの4日間には更なる大漁となり平井村(現在の鹿嶋市大字平井)などの各村々で皆大金を得たことが記されています。
(2)大金を得た各村々の人々が、鹿島神宮にお参りに来たり、酒店・旅店・商店などに溢れかえり、「金円を使うこと水のごとく也」という状態で、この大漁豊作により、漁師や農民だけでなく、商店や歓楽街(潮来)、人力車の車夫までもその恩恵を受け、また、東京やその他の地域から「酌取女」や「旅商人」も押し寄せるほど、異様な活気に包まれている様子が窺えます。
夜中まで遊んだ漁師らが、翌朝の漁に出るために一里もない距離を人力車を使って帰り、
「つりは要らぬ」と車夫に豪快にお金を払う様子が、面白くもあります。
明治初期に鹿島地域がここまでの好景気に恵まれていたことは、
現在の私達から見ると、とても不思議な感じがしますね。