本文
六、江戸末期の鹿島の異変
(『櫻齋随筆』より)
ここでは、大地震や津波・暴風雨などの自然災害や、水戸の浪士ら天狗党騒動などの江戸末期の鹿島及び江戸や各地の様子が記されています。立て続けに起こった自然災害に加え、江戸幕府の大老井伊直弼を水戸浪士達が暗殺する事件が起きるなど、江戸末期の不安定な世の中の様子が伝わってきます。
「安政(あんせい)の大地震」
ここでは江戸時代の安政年間におきた大地震について記されています。
読み下し文
(1)安政元年甲寅十一月四日、昼四つ時大震、昼半時ほど過ぎて、南に當り、大風の如き音聞えたり。是は鹿島洋中洪波発し、北方より南方へ押し下総飯岡辺より上総へかけ、九十九里海岸へ寄せ多りと云う。
同日、南海より洪波發し、豆州(伊豆)下田港、また、紀州廣の港等へうち寄せ、人畜死去、甚だ多しと云う。
(2)同二年乙卯十月二日、陸北風吹き寒冷、夜四ッ時大震、昨寅年よりも甚しく、近年に覚え無き震え也。江戸中、甚し。
時に則瓊在府にて、橋本町四丁目津久井屋新三郎方に、旅宿なりしが、其辺は至て震弱く壁なども落ちず。失火も無し故に、其辺の人々、鹿島大宮司様、いらせ候故、かくのごとくなりとて、甚だ、神威を賞しけること也。
鹿島にては、齋垣内右の方、石燈篭弐基倒れ、楼門正面大額、此方夜半にて釣り糸切れ、又御饌殿前、鉄の用心水の益乃水溢れたり。燈火ゆり消ゆるほどにては無し。
則文は、禁中御祈玉串、水戸へ進献に罷り出で、帰路、北浦の船中にて、格別の事なしと云う。予は、直に神宮へ参上、諸事指揮致す。神官にては、判官岡見伝盛、大長塚原直興、只二人のみ参上す。
解説
(1)まず安政元年11月4日の大地震及び津波のことが書かれています。
【意訳】
“安政元年(1854年)の11月4日の午前十時頃に大きな地震があり、昼頃に南から大風のような音が聞こえた。これは鹿島灘で発生した津波によるもので、北から南に向かって津波が押し、千葉県の飯岡の辺りから上総にかけ、九十九里の海岸に押し寄せたという。同日、南海でも津波が発生し、伊豆下田港、紀州の港などに打ち寄せ、人や家畜が亡くなり、その被害は甚大だという。”
(2)次に安政2年の大地震のことが記されています。
【意訳】
“安政2年10月2日、陸に北風吹いて寒冷。夜10時頃大地震があった。昨年よりも大きな地震で、近年にない大震だった。江戸は被害甚大である。その時、則瓊(則孝公の父)が江戸におり、津久井屋新三郎の家に宿泊していたが、その辺りは壁も落ちず火災も無かったため、周辺の人々が「鹿島大宮司様がいらっしゃるので、被害が少なかったのだ」と神威をしきりに称賛していることだよ。鹿島では、齋垣の中の石燈篭が2基倒れ、楼門の扁額の釣り糸が切れたほか、御饌殿前の鉄製の用心水の升の水が溢れたが、燈火が揺れ消えるほどではなかった。”
安政元年と2年に立て続けに大地震が起き、各地で甚大な被害が出ましたが、鹿島の被害は少なかった様です。さらに翌年には、非常に強力な暴風雨に見舞われています。
「鹿島と江戸の暴風雨」
ここでは安政3年(1855年)8月25日に起きた暴風雨について書かれています。
読み下し文
(1)同三年丙辰八月廿五日、昼より雨降り、初更の頃巽の風強く吹出し、三更の頃甚しく、南風になり又西風も交り、鹿島山内の、松、杉、百二十七本折る。廳場にては大杉、根より倒れたり。神木の大杉も大枝折れ、又宝庫の棟へ杉折れ掛り破損あり。予が、台所も棟を損じ、表座敷東側の軒口を損ず。雨は早く止みたれども、風は長く吹荒れたり。則文自身とよく働き、座敷向雨戸を〆防御候故、破損少し。
村田弥大夫家も潰れたり。素立にて、家根のみ葺き、未だ壁を付け不由へなり。(2) 宮中民屋も七軒、顚倒す。息栖にても、新規家作中の家、四、五軒倒たり。大舟津にも倒家ありと云う。同所、一ノ鳥居倒れ掛りたり。六十年来覚え無き、大暴風也と云々。
江戸は別て大荒。本所深川高輪辺、洪波深さ五六尺。内海の洪波にて、行徳辺より上総迠、浦々同断にて、人家多く倒れ又流れ、人畜多く死亡す。
同九月七日、予も出府なし。八幡より行徳迠の田地へ洪波来り。荒跡見るに、忍ばざる有り様也。
解説
(1)ご神木の枝や松や杉が127本折れた他、根から倒れた大杉もあるほど大風であったことが記されています。
また、民家も倒壊し(宮中(鹿嶋市宮中)の民家7軒、息栖(神栖市息栖)の建設中の新築家屋4~5軒、大船津の民家など)、大船津にある鹿島神宮の西の一の鳥居も倒れ掛かかるほどの非常に強い暴風雨であったと記されています。
(2)またこの台風により、江戸では洪水が発生し、東京湾の水が行徳(市川市行徳)から上総(房総半島の真中あたり)まで人家を押し流し、多くの人と家畜が亡くなったと書かれています。則孝公は洪水の数日後、9月7日に八幡(市川市八幡か)から行徳(市川市行徳)までの津波の跡を見て、「忍ばざる有様なり」とその惨状を綴っています。
「桜田門外の変」「水戸浪士の鹿島来襲」
読み下し文
「桜田門外の変」
(1)万延元年庚申、三月三日大雪降る。寒気厳し不順也。今日江戸桜田門外にて、水戸浪士等、大老井伊掃部頭を殺害す。
「水戸浪士の鹿島来襲」
(2)文久元年・万延二年辛酉二月廿八日改元、正月十三日。水戸藩士大高彦二郎、大津某等の附属共、藩士浪士等多人数なり。神宮廣前して、狼藉、神楽太鼓を打破る。此時大高等は、御手洗にありてこれを知らず。後に聞き恐縮して、中野仲之介と云ふ者をして、謝言有之。
後年、根本寺に浪士共屯集の濫觴なり。
解説
(1)万延元年(1860年)に起きた「桜田門外の変」について、「今日」のこととして綴られています。
(2)そして翌年(文久元年:1861年)に水戸浪士の大高彦二郎・大津“なにがし”に率いられた者達が、鹿島神宮の広前で神楽太鼓を打ち破る狼藉をはたらくという事件が起きたことが記されています。大高彦二郎らは御手洗池の方にいたためにこの事態を知らずに、後から聞きつけて神宮に謝罪したとあります。そしてこれは、元治元年(1864年)に起こった鹿島での天狗党騒動の始まりだったとしています。
「坂下門外の変」「天狗党・根本寺屯集」
読み下し文
「坂下門外の変」
同二年壬戌正月十五日、浪士等、老中安藤對馬守を、阪下門外に於て、刃傷に及ぶ。
(1)此時予は、幕府年頭の礼として在府、同日朝は、例年水戸家へ年始嘉儀、使者以て申述る故、家臣村田正一郎差出し、それより大塚の松平大学頭へ、玉串進上として廻り候ところ、同人たち帰りて、今日巳之刻頃、大塚あたりにて藩士躰の者数多、凡そ百人余鎗を引提げ、草鞋または足袋はだしなどにて、袴羽織、或袴のみ着、又着流しなどにて、甚周章の体に皆南方へ向て、奔走する由ゑ、最寄に尋候処、大塚の安藤殿下屋敷の藩士、上屋敷へ詰候。不審の由に申候と申聞候。是より先、旅亭津久井屋新三郎、橋本町四丁目、の家代共の話にて、此珍事承知せり。
後日に委しく聞ば、安藤は面部に加春り傷一ヶ所、背後に長さ二寸の傷、一ヶ所なりと。或ハ腰を切られ多りとも云。いずれも浅傷の趣也。當日は、加篭にて、阪下門内へ逃げ入たりと。其臣下も十六七人負傷あり。浪士も死傷あり。又本日は、安藤登城の途中也と云。桜田以下浪士事件は、飛鳥川の記に委細誌あり。
「天狗党・根本寺屯集」
(2)同三年癸亥十一月十三日より、浮浪徒、下生根本寺に屯集して、神領及び近郷を、騒擾す。是より前、潮来村小川村、其外、水戸領諸所に屯集す。翌元治元年三月に至り、近郷は鎮静。又秋に至り、那珂郡湊及び鉾田村、宮中等へ、脱走の浮浪徒止宿。冬に至り全く鎮静。委細別紙尓記す。
解説
「桜田門外の変」の翌年に、幕府の老中安藤對馬守が浪士らに斬りつけられる「坂下門外の変」(1862年)が起きます。
(1)この時則孝公は、正月の「年頭の礼」のため江戸におり、則孝公の家臣が偶然に「坂下門外の変」の浪士らが走り去る様子を目撃したと書かれています。
【意訳】
「年頭の礼」のために使者(村田正一郎)を大塚(東京都豊島区)の松平大学頭の屋敷に遣わしたところ、戻ってきて、「今日午前10時頃、大塚あたりで藩士の恰好の者ら百人程が、槍を引っ提げて、草鞋・足袋・裸足などで、羽織袴あるいは袴のみ、または着流しなどの恰好をし、ひどく急いだ様子で南に走って行った。近くの人に訪ねたところ、大塚にある安藤殿の下屋敷の藩士らが上屋敷に詰め寄ったとのことです。」と言う。後日、詳しく聞いたところによると、安藤對馬守が江戸城に登城する途中で浪士らに斬りつけられ、背中や腰などに浅傷をおったが、駕籠で江戸城の坂下門の中へ逃延びた。家臣16~17人が負傷したほか、浪士らにも死傷者があった。
(2)さらに翌年(1863年)の11月13日には、鹿島の根本寺に浪士ら(天狗党の一派)が集まり、鹿島でも騒動が起き、「冬に至り全く鎮静」したことが書かれています。
ここ鹿島の地では当時、幕府軍追討軍と天狗党の一派の戦いが繰り広げられ、最終的には天狗党の浪士ら23名が下生(鹿嶋市宮中)で打ち首にされました。<天狗の鹿島落ち>。この時打ち首にされた23名は、馬捨て場に運ばれて埋葬されましたが、明治11年頃に有志により「殉難諸士乃墓」という墓碑がたてられ、現在鹿嶋市の市指定史跡になっています。
「江戸幕府崩壊の前兆」
ここでは文久二年(1862年)に多くの人が目撃した怪奇現象について書かれています。
読み下し文
文久二年壬戌七月十五日、夜四ッ時頃より数星、北方よ里南方へ飛行す。其色、白黄赤青紫等にて、大小あり。幾千万といふをしらず。其中に至て低きは、人家の屋根程、或は軒端ほどゝも云う。の所を飛びたり。いずれも光り赫熒たり。又、暁にも同じく飛たり。此時、大祝松岡時懋は、江戸にて見たり。諸人皆恐怖せしと。
暁の分は、植松永躬氏、佐倉にて、見たりと。また、本郡北郷の人某は、利根川の下り船中にて同時に見たる由。
同年、月未詳。上総國、九十九里の海浜へ姥貝、又ポン貝共云、夥しく打寄せられ数里の間、堤を築たる如しと云う。里人は食料にもなし、また、肥料にもせしと云う。
昔、天正年中、相州の海浜に、貝の多く寄たる事あり。ほどなく、小田原の北条滅亡せしかば、此度も凶兆ならんと里人共云ひしが、幾ほども無く、徳川氏江戸を去り、上総片貝村に一揆蜂起し、亦々、舊幕府の臣等脱走して、同国、姉ヶ崎、其他所々に於て戦争あり。
解説
(1)まず一つ目は、文久2年(1862年)(「坂下門外の変」と同じ年)の7月15日に、大小の様々な色をした幾千万の星が、北から南に飛行したことが記されています。これはただの星ではないようで、低いものは民家の屋根や或いは軒端のあたりを低空飛行するものもあったと書かれています。この奇妙な流星群の目撃者は沢山いたようで、大祝家(鹿島神宮社家)の松岡時懋氏が江戸で、植松永躬氏(神宮の関係者か?)が佐倉(千葉県佐倉市)で、また鹿島郡の北郷の人が利根川の船中で目撃したと書かれています。松岡時懋氏は「諸人みな恐怖せし」と、江戸の民衆が恐れ慄いている様子を語っています。
(2)次に、同じ年に九十九里の海岸に、姥貝が大量発生した話が掲載されています。文久2年(1862年)にまるで堤防を築いたかの様に数里に渡って姥貝が大量発生した様子、地元の人々が「昔、天正年間に相州(神奈川県・相模灘)に貝が大量発生し、その後ほどなく小田原の北条氏が滅亡したが、今回も何かの凶兆ではないか」と噂をしている様子が伝聞で記されています。そして北条氏のごとく、この怪事の後に徳川氏も江戸を去ることとなったのだと記しています。