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かしまの歴史

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 ページID:0007754 更新日:2020年1月22日更新

 鹿島地方は古来、大和朝廷の東国経略の拠点として重要な地政を占め、常陸国一の宮・鹿島神宮を中心に栄えてきました。

 千葉県香取市の香取神宮と並んで、鹿島神宮の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)に象徴される、文字通り武道発祥の地であり、室町後期には、剣聖・塚原卜伝(ぼくでん)や松本備前守尚勝が世に出て、一層“武の里”の名を高めました。

 幕末には、鹿島神宮のかなめ石が地中で地震を起こす大鯰の頭を押さえているという言い伝えから、安政の大地震(1855年)をきっかけにして、錦絵じたての風刺画「鯰絵」が大流行しましたが、やがて復興で巨利を手にする資本家や黒船来航で混乱する幕府と世相への辛辣な風刺に転じたために取締りを受け、急速に姿を消していくことになったのです。また、伊勢神宮の宮司をつとめ、神宮皇学館大学の前身となる学問所を創始する尊皇家・鹿島則文が大宮司家に生まれ、明治維新にいたる思想形成にも大きな影響を与えました。

昭和30年代~ 鹿島開発

 産業的には半農半漁の町であった鹿島が大きな転機を迎えたのが、昭和30年代後半に茨城県によって始められた鹿島開発です。

 交通の不便さから陸の孤島といわれた鹿島地方に、「貧困からの解放」「農工両全」をスローガンに掲げて、港湾の築造と臨海部への工業団地の造成、市街地形成と農業団地の造成等を柱とし、30万都市建設を目標に巨大開発の波が押し寄せました。これにより、対象となった鹿島、神栖、波崎の三町は大きく姿を変えることになりました。

全体的には、鉄鋼や石油などの基礎素材産業を中心にした重化学コンビナートが港湾部に張り付き、これまでに150社を超える日本を代表する企業が立地しています。そのうち鹿島町には、住友金属工業株式会社(現 日本製鉄株式会社)を中心に、鉄鋼をメインとする製造業種が進出してきましたが、コンビナートの中心部は港の大半を擁する神栖町になりました。

 これにより千古の歴史と近代技術の粋という二つが、鹿島町の新しいイメージとして定着しました。

 

 臨海工業地帯を造成するために必要とした用地を取得するのに、予定地内にある土地を提供し、その6割に当たる分を外部に代替地で貰うという「鹿島方式」「六四方式」と呼ばれた独特の手法がとられましたが、買収価格が当初設定のまま据え置かれたり、組織的な開発反対運動も起こったりして、所有者に土地を手放したがらない風潮を生みました。同時に、土地高感も広がっていったために、多くの勤労者が他県や他町村に安い土地を求めて流れ、計画した人口も定着しないという結果になってしまいました。

 また、二度にわたる石油ショックが企業立地計画に大幅な狂いを生じさせ、マスタープランで描いた工業地帯の形成に至らぬままに、日本経済は長期的な減速化の道をたどることになりました。こうした原因によって、結果的に全体的な都市としての基盤整備が遅れると同時に、「昭和50年・30万都市」という目標とはほど遠い現実が生まれました。

 昭和59年、茨城県が開発収束宣言を出したころ、鹿島三町は立ち遅れぎみの都市基盤整備に挑みながら、新しい時代にふさわしい自らの顔を模索して苦闘するという時期を迎えました。

 鹿島町の北部に接する大野村は、臨海工業地帯の後背地として、進出企業の従業員の住宅が建設されたり、菜園付き小規模別荘などが建てられたりしましたが、農業を基幹とする産業構造は鹿島町と合併するまで続きました。

バブル崩壊による製造業離れと地域の活性化

 このような時期を経て、やがて突入したバブル時代は、若者の製造業ばなれが鹿島の企業群にも深刻な影を落とし、若者が働き、遊び、定着する、賑わいのある地域づくりをしなければならないという思いは、初めは企業に、やがて自治体にも共通のものとなっていきました。

 平成2年4月、ワールドカップ出場を果たせる競技力の向上とサッカー全体の底上げをにらんで日本サッカー協会が打ち出したプロリーグ発足の構想に、住友金属サッカー団が加盟の意欲を見せました。これに対して、自治体支援の取り付けを条件に住金本社もゴーサインを出し、本社直属のKFCプロジェクトチームが発足しました。

 同じ頃、茨城県では、国県始め鹿島三町と進出企業、地元関係者、学識経験者で構成する「楽しい街づくり懇談会」を発足させ、三町がそれぞれの特性を生かしながら、また機能分担しながら、目指すべき地域(まち)づくりの方向を探りはじめようとしました。

 この中で、鹿島町は、鹿島神宮を中心にした歴史性と、中高等教育機関の集積を生かした教育文化的な都市づくりが提言されることになりますが、懇談会では、Jリーグの動きと住友金属の意欲的な表明を受けて、賑わいの場としても好ましいとの判断から、より積極的表現で「サッカーを活かしたまちづくり」の提言を付け加えました。

鹿島アントラーズの誕生

 プロサッカーの胎動にそう慎重にならずに支援ができたのは、地道な活動を続けてきた鹿島サッカー協会を中心に競技人口が増え、熱心なスポーツ少年団活動の中でも、このところサッカー人気が群を抜いていることや、もともと温暖な気候を利用して、北国の学生を中心にした冬場のサッカー合宿が市内で盛んに行われていたこと等を行政側が熟知していたことなどが背景にあったからと考えられます。

 「何でサッカーなのか」という声が一部になかったわけではありませんでしたが、声高に反対する意見はほとんど聞かれませんでした。住友金属からの要請に基づく日本サッカー協会や関係機関への陳情は、茨城県とともに町は欠かさず同行していました。

 日本サッカー協会では、

  1. 住友金属サッカー団そのものが日本リーグ2部に低迷する実力しかないこと。
  2. 周辺町村の人口を合わせても観客動員上に難があること。
  3. 競技場がないこと など

からいい回答を示しませんでした。しかし、

  1. ジーコ等大物外国人選手の補強で戦力アップをアピールする。
  2. 県サッカー協会、近隣町村、コンビナートの企業群が波状的に要請書をサッカー協会に出し、観客確保に協力的な姿勢を見せる。
  3. 県知事が、それまで日本にはなかった屋根付サッカー専用スタジアム建設を表明する など

課題を一つひとつクリアしていきました。

 こうした県や企業、そして地域ぐるみのバックアップの努力が実を結んで、平成3年2月14日、住友金属サッカー団は「99.9999%不可能」(Jリーグ川淵三郎チェアマン・当時)といわれたJリーグ加盟を認められました。同年7月24日、公募していたチームの名前が、町内の小学生が応募した「鹿島アントラーズ」と決まり、10月に株式会社鹿島アントラーズFCが設立されました。

 アントラーズのJリーグ加盟に決定的な働きをした原因はいくつか考えられますが、

  1. 住金をはじめ、立地企業の鹿島地域を賑わいのある、魅力あるものにしたいという熱意。
  2. 鹿島町を中心とする5町村をホームタウンとするチームを認めた日本サッカー協会のホームタウン制の理念。
  3. 日本サッカー協会を直接決断させるインパクトになった総工費84億円の屋根付専用スタジアムを、もともと鹿島町が地域間交流の拠点施設として70億円余りを投じて整備を予定していた「卜伝の郷運動公園」敷地内に建設すると決断した茨城県知事の存在。

などが特筆されます。

社会現象となったアントラーズ

 アントラーズとJリーグ、県立カシマサッカースタジアムは、強烈なパワーで町中を揺り動かしました。

 アントラーズによって、町北部を走る鉄道の貨物駅の乗降駅化という長年の悲願も、当面は試合日だけの臨時駅ですが、名前も「鹿島サッカースタジアム駅」として、翌、平成6年3月に開業しました。同じように昭和42年に都市計画決定したものの、なかなか陽の目を見なかった広域幹線道路のうち、スタジアムへのアクセス道路になる国道51号バイパスの一部(約4.6km)が開通し、同バイパスに接続する国道124号バイパスも着工しました。(R51号、R124号を始め、主な都市計画街路は平成14年のサッカー・ワールドカップの開催に合わせて整備され、大半が全通しました。)

 また、アントラーズという言葉が町中の老若男女を結びつけたことの意味は、きわめて大きいものでした。市のいたるところにアントラーズの旗がひるがえり、試合の日はアントラーズレッドのユニフォームに身をくるんだ若者たちが、スタジアムの周辺で賑やかな声を上げました。Jリーグのチームの中で、これほどお年寄りの姿を目にするスタジアムはないともいわれたほどでした。

 こうしたムーブメントの先頭には、いつも統制の取れた熱狂的な応援を繰り広げるサポーターの集団がいます。彼らは昭和44年の鹿島港開港以降、つまり鹿島開発のあとに生まれた、文字通り新しい世代がほとんどです。その彼らが、有無を言わさぬ圧倒的なパワーで、かつて新旧住民という呼称をお互いに用い、たぶん意識の隅では今でも微妙に翳りを落としているであろう自分たちの親に当たる旧い世代を引っ括(くく)って、全く新しい興奮と感動の地平に引きずり込んでいきました。その光景は、一つの時代に区切りをつけ、新しい時代の到来を実感させるのに十分なインパクトがありました。

 また、ゲートでのチケットもぎりや観客席での案内、誘導など、ホームゲームの運営をサポートするスポーツボランティアが体育協会やサッカー協会を中心に組織され、Jリーグが掲げるホームタウン制の見本ともいわれました。気持ちよく観戦できると好評であるだけでなく、市民とスポ―ツの関わり方への新しい提案としても注目を集め、さまざまなイベントにも参画しながら、その発展性に期待が寄せられてきました。

合併で鹿嶋市が誕生

 アントラーズのホームタウン5町村に広がった地域の一体感は、やがて鹿島開発以来の課題であった広域合併論議に、ふたたび火をつけました。もともと開発の対象区域であった鹿島・神栖・波崎3町には、いずれは合併という認識が底流にありながら、開発に伴って生じた学校や道路、上下水道といった生活環境面の緊急課題の解決に追いまくられる中で、合併論議はいつとはなしにその勢いを失っていきました。

アントラーズがJリーグ1stステージ初制覇を果たした平成5年、3町長をメンバーとする鹿島地域都市づくり懇談会が茨城県の呼びかけで開かれ、翌年、鹿島町に隣接する大野村長がこれに加わって、合併の枠組みは4町村に拡大されました。そして、2000年(平成12年)大同合併の目標が確認されましたが、協議の過程で大野村から提出された早期合併への強い要請に鹿島町がこたえる形で、平成7年9月1日、鹿嶋市が誕生しました。

2002年 FIFAサッカーW杯の開催とスポーツ先進のまちづくり

 地域を揺るがしたアントラーズ・ムーブメントに支えられて、茨城県が立候補していた「2002FIFAワールドカップ」開催地の一つに鹿嶋市が決定しました。国内10会場のうち最も小さな自治体として取り組んだ手づくりのホスピタリティは、マスコミ関係者からも高い評価を受けました。「アントラーズのまち、W杯が開かれたまち」の強烈なイメージは、鹿嶋市のアイデンティティーとしてまちづくりに欠かすことのできないものとなりました。

 W杯を成功させようという過程で著しくになった市民の主体的な諸活動への参画意欲とパワーを、よりダイレクトにまちづくりに結び付けようと、市はW杯開催の年(平成14年)に策定した市総合計画において「市民協働」の理念をまちづくりの基本姿勢として明確に位置付けました。

 平成15年4月、市長部局に市民協働部を設置し、それまで教育委員会が所管していた生涯学習・市民活動の部門を補助執行させ、市内小学校区の地区公民館10館にまちづくりセンターの名称を抱き合わせ、地域から推薦された市民を特別職として位置付けて管理運営を任せるようにしました。センターごとに地区住民によるまちづくり委員会が設置され、地区の特性や実情に即したアイディアをもとにした活動を実施して今日に至っています。

 また、市総合計画では、まちづくりの6つの目標のトップに「スポーツ先進のまちづくり」を掲げ、まちづくりの上でスポーツを積極的に活かしていこうとする姿勢を明確に打ち出し、その基本姿勢は現在の第三次総合計画にも引き継がれています。

 施設面では、既存の室内プールの(企業の排熱を利用した)温水プールへの改修、グラウンドゴルフコース(4コース)の整備、スタジアムに隣接した卜伝の郷運動公園多目的球技場の夜間照明付き人工芝グラウンド(サッカー場2面)への全面改修などに取り組んできました。

活動を支えるマンパワーと運営組織体制の面では、平成15年に県内初の総合型地域スポーツクラブ「かしまスポーツクラブ」がNPO法人の認証を受け、エリアサービスなどで多様な種目の提供に努めているほか、最大組織である市体育協会も平成20年にNPO法人となり、市独自のスポーツ指導者認定制度のための講座開設など、意欲的な取り組みを見せています。二つのNPO法人は、それぞれ市体育施設の指定管理者として、効率的な施設運営でも成果を上げつつあります。

 民間の動きでは、旧雇用促進事業団が行なった保有施設の整理清算によって、市が取得した勤労者保養施設「鹿島ハイツ」を借り受けた事業者が、学生などのスポーツ合宿を誘致しようと巨費を投じて施設の増改築を行ないました。合宿棟(既存客室と合わせて600人収容)、サッカーコート5面(ラグビー兼用4、アメフト兼用1)、フットサルコート4面、野球場1面、テニスコート25面という充実ぶりで、土日や長期休業期を中心に、首都圏からの合宿客の呼び込みに大いに実績を上げています。

 地域を揺るがしたアントラーズに刺激されて(と私たちはあえて関連づけてPRしていますが)、高校サッカーやラグビーの全国選手権大会出場、日本製鉄野球部の都市対抗野球全国大会出場など、スポーツの全国大会レベルでの躍進が目立つようになっています。こうした傾向が続くことによって、スポーツのまちとしての足腰が一層鍛えられ、全国に鹿嶋を発信する力になるものと期待しています。

ホームタウンを取り巻く新たな課題

 鹿嶋市と周辺地域に熱狂をもたらした2002W杯以降、インターハイや高齢者健康福祉祭(ねんりんピック)など、全国レベルの大会が鹿嶋市で開催され、スポーツ先進のまちづくりは着実に根付いてきています。しかし一方で、Jリーグが発足して20年が過ぎた今日、スポーツ熱の中心を担ってきたアントラーズへの関心に、ややかげりが見えてきたとも思われる傾向も現われています。

 課題の一つは、ホームゲームでの観戦客数が減少傾向にあることです。W杯仕様に増改築された2001年、2002年は1試合あたり2万人をキープしていましたが、その後は割り込んでいます。二つめは、東日本大震災に見舞われた2011年シーズンは地元観戦客の割合が65%に達したものの、J発足時と比べると、観戦客に占める地元観戦客の割合が減少しているという問題です。

 アントラーズもこれらを深刻に受け止め、2006年からホームタウンの小学生に全試合無料観戦できるキッズパスを提供したり、2007年からは選手が小学校を訪問して交流したりするなど、一層の地域密着に努めています。また、地元ラジオ局の「FMかしま市民放送」と提携してホームゲーム全試合の実況放送を行い、新たなファン開拓につなげようとしています。 さらにホームタウンだけでなく、サポートタウンを増やすために近隣県を含めた10自治体とフレンドリータウンを締結するほか、つくば市には専用施設を備えたアカデミーセンターを、鹿嶋・つくば・日立の3市で下部組織を、また県内を中心に13カ所でサッカースクールを設置するなど、サポート圏域の拡大を図っています。

 ホームタウン5市では、2007年5月に「アントラーズ・ホームタウン協議会(会長・鹿嶋市長)」を発足させ、アントラーズへのサポートだけでなく、アントラーズを活かした地域振興を各市が展開することによって、クラブも自治体も共によりメリットのある、有益な関係を目指そうとしています。 こうした努力の結果、2009~2010年には目標の1試合2万人を達成することができましたが、2011年の震災でスタジアムやクラブハウスを始め、大半のホームタウンが甚大な被害を被ったことなどから、再び2万人を割り込む結果となっています。

 スポーツ先進のまち、スポーツを核としたまちづくりを標榜する鹿嶋市にとって、常勝アントラーズの存在は欠かすことができません。100万人都市を背景とする他のJリーグクラブと違い、28万人に及ばないホームタウンと観戦のための交通手段が脆弱なアントラーズはそれだけで大きなハンディがありますが、常に一歩先んじようとするクラブ自身の懸命の努力と、ホームタウン・フレンドリータウンの地方ならではのアットホームなサポートで、50年後、100年後にも羽ばたき続けるアントラーズを目指しています。

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