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鹿島神宮の御船祭

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記事ID:0088471 更新日:2025年10月3日更新

はじめに

 御船祭(みふねまつり)とは、12年に1度、午年に行われる鹿島神宮の大祭です。鹿島神宮のご祭神が御座船に乗って北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)を渡り、香取神宮の神様と対面するもので、神幸祭と併せて9月の1日・2日・3日に斎行されます。その由緒は古代『常陸国風土記』の時代まで遡り、勅使を迎えて行われたこともある、歴史ある祭礼です。
 このページでは、御船祭の由緒と歴史についてご紹介します。次回の御船祭は令和8年9月2日 水曜日に行われます。12年ぶりの御船祭を迎える前に、改めて御船祭についてご紹介します。
※令和8年御船祭の概要については、鹿島神宮のホームページ<外部リンク>をご覧ください。

 

資料1 御船祭の様子(平成26年)

御船祭の様子
鹿嶋市(広報秘書課) 撮影

 

資料2 御船祭のルート

御船祭のルート
鹿嶋市(広報秘書課) 作成

 

古代

御船祭の誕生

 古来、鹿嶋の地には「香島の天の大神」が鎮座しており、中臣氏や卜部氏が奉仕していました。『常陸国風土記』には、中臣巨狭山命(なかとみのおほさやまのみこと)が舟三隻を津の宮(海辺にある別宮)に献上したことから、毎年七月に舟を造って津の宮に奉納する祭事が始まった、と記されています。当時、海面は現在よりも高い位置にあり、霞ヶ浦、北浦、鬼怒川等の河川・湖沼は全て一つの湖として繋がっていました。俗に「香取の海」と呼ばれるこの広大な内海は、水陸共に交通の要衝で、多くの人々が船で往来していました。「香取の海」を挟んで鹿島神宮と香取神宮は対置されており、香取神宮は「梶取(かんどり)」すなわち航海の神様として崇敬を集めていました。鹿島神宮のご祭神についても、現在では武神として有名ですが、古くは航海神としても信仰され、御船祭はその神徳を象徴する神事であったと考えられます。

国家的祭礼としての御船祭

 古代、鹿島神宮は朝廷や常陸国府との関わりが深く、鹿島随一の祭礼である御船祭も例外ではありませんでした。古代の御船祭には、朝廷から勅使が派遣されており、国府の長官である常陸国司も毎年七月に鹿島を訪れました。常陸国府があった石岡市の高浜神社では、現在、毎年6月21日に青屋祭(あおやさい)が行われています。これは常陸国司が香取の海を渡って鹿島へ巡拝する際、天候不順で出航出来なかった場合、青草で仮屋を作って鹿島神宮を遥拝したことが起源の祭礼で、次第に恒例化し、御船祭と連動して行われるようになりました。
 しかし、律令体制の崩壊や東国の動乱に伴い、勅使の派遣も途絶えていきます。また、国司は現地に赴任しなくなり、御船祭の運営は常陸国府の役人であった在庁官人や、東国の新政権である鎌倉幕府によって支えられることになりました。

資料1 「香島郡」『常陸国風土記』

『常陸国風土記』「香島郡」

西野宣明 [校]『常陸風土記』,和泉屋金右衛門,天保10 [1839]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536069 (参照 2025年11月05日)

『風土記』は奈良時代に編纂された各国の地誌で、常陸国ほか五か国の『風土記』が現存しています。『常陸国風土記』「香島郡」の項には、倭武(景行天皇の皇子とされる伝説上の人物)の時代、中臣巨狭山命が天の大神の託宣を受け、舟を奉納しようとしたところ、神意による不思議な出来事が相次いだ、これを畏れた中臣巨狭山命が、舟三隻を津の宮に献上したことから、毎年七月に舟を造って津の宮に奉納する祭事が始まった、と記されています。
 

資料2 「香取の海」と水陸交通

香取の海

鹿嶋市教育委員会 作成

「香取の海」は水上交通路として重要であったうえ、陸上交通との結節点でもあり、沿岸の台地上には古くから多くの集落が営まれてきました。鹿島地域においても、重要な集落遺跡や古墳群、城館跡は香取の海(現在の北浦)沿いに集中しています。中世に入ると、香取の海沿岸には鹿島神宮・香取神宮の神官や武士の支配する津が成立し、漁業や流通に従事する海夫(かいふ)が往来しました。このように香取の海周辺では、人や物資の移動を基盤とする一体的で豊かな経済圏が展開していました。

​中世

武士が支える御船祭

 中世、源頼朝の時代に、断絶した勅使の代官として大使役(たいしやく)が創設され、これを常陸平氏が担うことになりました。常陸平氏とは、平安時代後期に常陸国に拠点を置いた平惟幹(たいらのこれもと)の子孫のことで、惟幹流から枝分かれした支流が常陸国内各地に土着していました。鹿嶋市内に拠点をおいていた鹿島氏も、常陸平氏の一族です(参考:常陸大掾平氏と鹿島)。かねてより源頼朝は、関東随一の武神であり、藤原摂関家の氏神でもある鹿島神宮を篤く信仰していました(参考:鎌倉幕府と鹿島神宮)。頼朝は鹿島神宮を保護しつつ、常陸平氏をまとめ上げるため、馬場氏(のちの大掾(だいじょう)氏)を筆頭として、御船祭の大使役を常陸平氏の輪番で勤める体制を創設しました。大使役は祭礼費用の調達も担っており、御船祭の維持に不可欠な存在でした。
 また、古代から中世にいたるまで、御船祭は鹿島神宮と常陸国府の共催で執り行われました。院政期、国司が現地に赴任しなくなったため、在庁官人(国府の役人)の税所(さいしょ)氏が「国司代」を務めるようになります。国司代税所氏は大使役を選定し、差符(さしぶ)を遣わす役割を担っていたほか、祭礼における事務方の筆頭として、祭礼に参列する在庁官人たちを統括しました。
 しかし室町時代に入ると、次第にこれらの体制が揺らいでいきます。戦乱の中で常陸平氏各氏は家を統廃合させ、あるいは滅亡し、大使役を継続して勤めたのは大掾氏、鹿島氏、真壁氏など一部の氏族のみとなりました。天正18年(1590)に大掾氏が、19年(1591)に鹿島氏が滅び、真壁氏が佐竹氏家臣として秋田に拠点を移したことで、大使役は断絶し、御船祭の規模も大幅に縮小していきました。

 

資料3 正月青馬之事幷七月御祭大使役之事案

(準備中)

乾元2年(1303)正月青馬之事幷七月御祭大使役之事案(『鹿島神宮文書』4号、鹿島神宮所蔵​)

大使役創設の経緯を示す、唯一の史料です。古くは七月大祭(御船祭)に勅使が下向していたが、「国煩民歎」により廃止され、「常陸大掾」が内裏昇殿の許可や官途を賜り勅使に准じて大祭に勤仕するようになった、その後源頼朝の代以来、「大掾余流七郷地頭」と呼ばれる常陸平氏の領主たちが、他門を交えず、七年に一度「七郷巡役」として大使役を勤め、また大使役を務めた者が大掾官に任じられた、と記されています。虚偽とみられる内容もありますが、源頼朝と御船祭との関係や、常陸平氏が大使役を占有したことなど、興味深い記述が多く含まれています。
 

資料4 大使役の記録

大使役の表

表注:水谷類「鹿島社大使役と常陸大掾氏」(同著『中世の神社と祭り』岩田書院、2010年、所収)p20~p21、東京大学史料編纂所所蔵 「大使役記」(謄写本『安得虎子』巻六 請求番号二〇七一・三一—四、所収)をもとに作成

江戸時代の考証学者、宮本茶村が編纂した『安得虎子(あんとくこし)』所載の「鹿島大使役記」は、建長6年(1254)から応永11年(1404)までの大使役を記録したもので、大使役の実態を現在に伝える貴重な史料です。一族の惣領家だけではなく庶子家も大使役を勤めている様子がみられるほか、大使役を勤められなかった鹿島氏の代役として「新大掾石崎掃部助」が立っていることなどが確認され、大掾氏が国司代税所氏と共に大使役体制の中枢にあったことがわかります。

祭事進行の変化

 この時期に、御船祭の祭事進行や祭礼の目的が大きく変化します。鎌倉時代後期成立とされる「鹿島宮社例伝記」には、御船祭について「三韓降伏天下泰平之大神事」と記されています。古代以来の天下国家の安寧や水上交通安全を願う目的に加え、神功皇后が朝鮮半島の国々を征討したという伝承(三韓征伐)になぞらえた三韓降伏(さんかんこうぶく)が、新たな祭礼の目的となったことがうかがえます。この変化の明確な原因は不明ですが、よく似た由緒をもつ香取神宮の神幸祭においては、蒙古襲来を機に香取神宮で異国降伏祈祷が盛んに行われるようになり、諸祭礼の意味合いが「三韓征伐」の伝説に結び付けられるようになったとされています。鹿島神宮にも、同様の時代背景があったと考えられます。
 また、室町時代に成立したとされる『鹿島宮年中行事(かしまのみやねんちゅうぎょうじ)』の御船祭の記述には、鹿島神宮のご祭神が水上を渡る儀式(水上渡御)がみられなくなることから、この時代までには水上渡御が行われなくなったことが分かります。具体的な時期や理由は不明ですが、御船祭を経済的に支援していた常陸平氏諸氏が次第に勤仕に消極的になったことや、度重なる戦乱のなかで地域社会が分断され、広域にわたる祭礼の実施が困難になったことなどが背景にあると考えられます。

資料5 中世御船祭の祭事進行
時期 祭事の内容
『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代後期成立か)
7月上旬 七月上旬の神事は、我朝第一の祭礼であり、三韓降伏天下泰平の大神事である。​(中略)この祭事について、三社の御船の上に、仮屋神輿を造る。様々に装飾を行い、三艘の船を並べて内海に出御させ、津東西という末社(現在の津東西社。アイロコイロ社とも呼ばれ、鹿嶋市下生に鎮座していたが、現在は鹿島神宮境内の楼門前に移転している)の前より軍を整える。異国退治祝いの鬨をあげ、勇ましく御船をそれぞれ浪の上に浮かべ奉る。下総国香取大明神末社津宮の渚に御船を着岸させる。人々は棹もささず神風に任せ、丑寅時には、海路を間違えず三十里の長さを浪を分けて進み、矢の如く着岸する。そして香取神宮の役人神官等ら数千人が待機し、御船に向かい、種々の祭事を行う。(中略)参詣の人々が集まり、この御船木に手をつけ身に触れ、神徳を得て、所願成就が叶うという。
『鹿島宮年中行事』(室町時代成立か)
7月3日
(旧暦)
「荒物出」の祭事といって、神功皇后三韓降伏の祭礼の始めである。宝蔵より八竜神の盾板を出す。宝蔵の前に荒薦(荒く編んだむしろ)を敷いて、板を三枚立てて祀る。一枚は本殿の大床(外陣)に安置し、二枚は宝蔵に入れる。
7月7日
(旧暦)
宝蔵より剣や数々の神宝(玉之箱・駄丈・八竜神楯の板三枚・懸鉾(参照:黒漆螺鈿蒔絵台)・御行器など)を出す。神功皇后三韓退治の祭礼である。神武天皇東征の時、詔を受けて平定した武甕槌神が、鹿島神宮に奉納した剣を韴霊剣という。この日の行事に社務から中官まで出席して韴霊剣(参照:直刀黒漆平文大刀拵)をいただく。祭礼の場は、宝蔵の前、本殿の後ろである。神前に索餅を備える。(中略)神宝を取り出し、異朝退治の霊法勤行を終えて席を立つ。正面の藤の方より北に出て、大宮司を始め神官が立ち並ぶ。三韓降伏調義の火を立てる先例がある。
7月10日
(旧暦)
三韓退治の大神事である。向座(神官の一種)は出仕せず、国役(神官の一種)は出仕する。皆向座の席に着席する。
7月11日
(旧暦)
夜に三韓降伏の祭事が有る。楼門の前に荒薦を敷く。7日に本殿に出した神宝を荒薦の上に置き奉る。神官たちが「とき」の声を同時にあげる。勝利の祭礼である。
7月12日
(旧暦)
三韓退治成就の祭礼である。大宮司は楼門内の正中に着座し、大禰宜(次席の神官)が神供を備える。大宮司が幣帛、御例酒を奉る。大宮司が席を立つ。また宝蔵の前に座り、神前に出しておいた神宝を確認し、元のように宝蔵に奉納する。(中略)こうして天下泰安の祭礼が成就する。

表注:『鹿島宮社例伝記』『鹿島宮年中行事』(『続群書類従 第三輯下 神祇部 巻七二』​)より、関連部分を抜粋し、大意を記した。

近世

御軍祭の誕生 ―鹿島神宮と町人の祭りへ

  近世の御船祭は基本的に、御船木三本を楼門前に立て、神宝を出し入れする内容でした。
 また、起源は不明であるものの、七月十日に御軍祭(みいくさまつり)が行われていたことが、江戸時代になって初めて文献で確認できるようになります。十日の夜、神官らは神宝を楼門の表に出し、楼門の下に立って鳥居に向かい、剣を抜きます。この間、鹿島神宮門前町や鹿島神領の人々は、多くの提灯を括り付けた長い青竹をかがり火にくべて燃やしました。中近世移行期、佐竹氏の一族である佐竹東(さたけひがし)家が鹿嶋の地を統治しますが、その時代以降、鹿島神宮門前には神官や宮大工、商家の人々らが集住し、本格的な門前町が形成されていきます(参照:佐竹氏の台頭と大掾平氏一族)。こうして新たに生まれた「町人」たちに、御船祭は三韓征伐を象徴する勇壮な祭礼として受け入れられていきました。 
 幕末になると、門前各町で山車が製作され、御軍祭の最中に街中を曳き回されるようになりました(参照:鹿嶋市内の有形指定文化財)。御軍祭は現在「提灯まち」と呼ばれ、今もなお鹿島神宮門前町の重要な行事として受け継がれています。

資料6 近世御船祭の祭事進行
時期 祭事の内容
7月3日
(旧暦)
宝蔵開。神宝種々出す。干満両珠太刀である。正殿大床に飾る。神宝を出し終わったら宝蔵を閉める。7月はこの日より7日、11日、12日まで祭事が続く。その昔、神功皇后三韓征伐の時、鹿島神宮の大神が皇船を守護し、皇后の軍威を助けたことでたやすく三韓を征服した。その時節が7月に当たり、以来吉例によってこの祭事が行われている。
7月7日
(旧暦)
七夕節会。(中略)宝蔵を開き、また神宝を出す。太刀、楯、旗竿などの武器を全て正殿大床に飾る。韴霊剣を宝蔵の表に出し奉る。大宮司並びに三向座等宝蔵の前に着座例式し、それぞれ剣を頂戴の上宝蔵に収める。剣の出し入れは定まった役目の社家が勤める。終了したら宝蔵を閉じて退出する。
7月10日
(旧暦)
日暮れに宮中町々軒別、並びに神領村々近村より小提灯を多く燈し、青竹の枝ごとにこれを付けて献上する。(中略)まず一同大町龍神の社辺に押し詰める。神前で祭事がある。楼門の表に神宝の太刀二振を飾る。(中略)楼門と鳥居との間に火の手をあげ、このとき提灯が一同に来て、火に投じて焼く。大勢が同音に鬨の声を上げる。神官らや参詣の群衆で刀を持つ物は皆取り出す。提灯を焼き上げた煙を受けると吉祥である。夜が暮れるのを合図に惣大行事(神官の一種。武家の鹿島氏の系譜が務める)がほら貝を鳴らして提灯を催促し、また惣大行事よりも提灯を二張献上し、提灯が詰められているところの進捗を知らせる。
7月11日
(旧暦)

夜、丸木を削って軍船をかたどり、楼門の前に飾る式がある。物忌に従う社家行事が凱歌を歌う。これは勝鬨の祭事と言い伝えられている。

7月12日
(旧暦)
3日、7日に宝蔵より出した神宝を宝蔵に返し納める。

 注:旧惣大行事家文書(『鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所発行、昭和8年)所載文書)より、関連部分を引用・抜粋し、大意を記した。

 

資料7 「七月大祭事十月十一日楼門前式」(『鹿島神宮誌』より)

江戸時代の御船祭

岡泰雄 編『鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所発行、昭和8年)p299より引用​

昭和時代の宮司 岡泰雄が、江戸時代の書誌に基づいて七月大祭(御船祭)の祭式を記録したものです。近世の七月大祭は、七日に宝蔵を取り出し、十日・十一日の夜に楼門前で祭事を行うのみでした。楼門前に、丸木を削って軍船をかたどった「御舟木」が三本飾られています。
 

資料8 『鹿島志』「御軍祭」

『鹿島志』「御軍祭」

『鹿島志』(鹿嶋市教育委員会所蔵)

江戸時代末期の神官である北條時隣は、江戸で国学を学び、鹿島神宮の祭事や鹿島地域の地誌をまとめた『鹿島志』を執筆しました。時隣は御軍祭について「青竹の葉に火をともした小提灯を結いつけ、鬨の声をあげて押し寄せ、皆かがり火として一気に燃やす様子はとてもおぞましいまでである。(中略)男は太刀・剣を、女は槍・長刀の鞘をもち、かがりの火影にうちかざす」と記しています。

近代

御船祭の復興

 明治3年(1870)7月11日、大宮司の鹿島則孝が神祇官に官幣使の派遣を要請したことから、勅使を迎える形での神幸祭・水上渡御・香取神宮による御迎式などを組み合わせ、御船祭が復興されました。明治6年(1873)から太陽暦が採用されると、御船祭は旧暦の7月11日にあたる9月2日に行われるようになります。また、明治13年(1880)からは2年ごと、明治20年(1887)からは12年ごとの午年に行われるようになりました(式年化)。平年は、楼門前に行宮を設置して御神輿渡御を行う「神幸祭」とともに、門前で「提灯まち」が実施されるようになります。また、古くは香取津の宮河岸が水上渡御の終着点でしたが、明治の頃からは潮来対岸の加藤洲に斎杭(いみぐい)が設置され、こちらが終着点となりました。

地域でつくる御船祭へ

 さらに、神官組織の再編成や神官の減少に伴い、これまで神官たちだけで構成されていた供奉の行列を、地域社会の人々が担うようになりました。近代に入って、御船祭は鹿島神宮だけの神事にとどまらず、鹿島地域全体の祭礼という側面をより強め、現代に至るまで連綿と受け継がれていくことになります。

 

資料9-1 供奉行列(明治3年)

供奉列記(明治)

岡泰雄 編『鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所発行、昭和8年)p299より引用

資料9-2 供奉行列(大正7年)

供奉行列(大正7年)

「供奉列記」(鹿島神宮所蔵)

資料9-3 供奉行列(平成29年)

供奉行列(平成26年)

「鹿島神宮式年御船祭供奉列記」(鹿島神宮所蔵)

明治初年頃まで神官が務めていた、弓や盾、榊(さかき)を持った供奉(ぐぶ)行列は、地域の人々によって担われるようになりました。大正7年(1918)の供奉列記には、「中野村」「在郷軍人会」「明石網方」のように現在ではみられない行政区やコミュニティが散見され、時代ごとに変化する鹿島地域の様相がうかがえます。一方で、平井・小宮作地区による輿丁奉仕など、長らく同じ役目を受け継いでいる地区もあります。
 

資料10 近代の御船祭の様子

近代の御船祭1  
近代の御船祭2  
近代の御船祭3  
近代の御船祭4  
昭和27年  
昭和17年2  
昭和17年3  
昭和17年4  
上4枚:『御船祭記念写真帖 昭和五年九月』(鹿島神宮所蔵)、下4枚:『官幣大社鹿島神宮御船祭記念写真帖』​(鹿島神宮御船祭々務事務所、昭和17、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14117899 最終閲覧2026年07月21日)

 

おわりに

 御船祭の歩みを振り返ると、時代ごとの社会情勢に大きく左右されながら、幾多の変化を経て現代の形へと至ったことがわかります。古代においては朝廷や国府から重視された国家的祭礼でしたが、中世における常陸平氏の関与を経て、次第に門前町や周辺地域の人々が一体となって執り行う、地域社会の祭礼へと変化していきました。長らく地域の人々によって支えられてきた御船祭は、鹿島神宮の神事であるにとどまらず、「鹿嶋の歴史」そのものであるといえます。これからも御船祭が、先人たちより受け継がれてきた伝統行事として未来へ継承されていくことを、私たちは願ってやみません。令和8年の御船祭では、ぜひ皆様ご自身の目で、水陸を舞台に繰り広げられる歴史絵巻をご覧いただければ幸いです。

 

※主要参考文献※
『鹿島町史   第1巻 鹿島の歴史』(鹿島町、1972年)
『鹿島町史 第2巻 鹿島の文化史』(鹿島町、1974年)
鹿嶋市文化スポーツ振興事業団編『図説鹿嶋の歴史 中世・近世編』(鹿嶋市教育委員会、2009年)
千葉県史料研究財団『千葉県の歴史 通史編 古代二』(千葉県、2001年)

科研費基盤研究(C)(一般) 研究成果報告書(研究者代表 鈴木哲雄)『香取文書調査報告書(2) 香取文書関係資料の文化財としての保存に向けた発展的研究​』( 2026年)
鹿嶋市立中央公民館 令和8年度第3回市民カレッジ・第6回かしまの歴史講座「御船祭を学ぶ」配布資料(講師:大津忠男)
岡泰雄 編『鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所、1933年)
萩原正彦 編『新鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所、1996年)
水谷類「鹿島社大使役と常陸大掾氏」(同著『中世の神社と祭り』岩田書院、2010年)
高橋修編「「常陸平氏」再考」(同編『常陸平氏』戎光祥出版、2015年)
『茨城県立歴史館史料叢書11 鹿島神宮文書1』(茨城県立歴史館、2008年)
『茨城県立歴史館史料叢書22 税所文書 芹沢文書 鳥名木文書』(茨城県立歴史館、2019年)
茨城県立歴史館『春の企画展 鹿島と香取』(同館発行、2023年)
「鹿島年表 稿」(個人蔵)

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