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鎌倉幕府と鹿島神宮

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記事ID:0050044 更新日:2021年3月29日更新

源頼朝は、養和元年(1181年)旧佐竹領であった世谷(常陸太田市)・大窪(日立市)・塩浜郷(日立市)を鹿島神宮に寄進し、併せて橘郷(小美玉市・行方市の一部)も寄進しました。

塩浜はその名の如く、塩の産地であり、大窪は米の産地でした。こうした土地を寄進したのは、一方では鹿島神宮を尊崇し、一方では佐竹氏より接収した土地の人心の安定を図る意味もあったものと考えられます。橘郷は、承安4年(1174年)に常陸国府からすでに鹿島神宮へ寄進されていた土地でしたが、いわば所領安堵を承認したものと思われます。それは、武士による社領の収奪と寄進という二面性を持ち、また鎌倉幕府の庇護を受ける神社としての地位の確立でもありました。公家と密着していた鹿島神宮も、鎌倉期に入ると武士と接触するようになっていきました。

梅竹蒔絵鞍

鹿島神宮の宝物に源頼朝が奉納したと伝えられる鞍があります。国の重要文化財梅竹蒔絵鞍(うめたけまきえくら)です。

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、

「建久二年(1191年)十二月廿六日、常陸国鹿島社鳴動すること大地震の如く、聞く者の耳を驚かした。(鹿島神宮の禰宜)中臣広親は占い、これは兵革ならびに大葬の兆しであると頼朝に告げた。頼朝は驚愕し、鹿島政幹を遣わして、神馬を奉納した。翌年三月十三日に後白河上皇が崩御された。」

と記されています。現存する鞍は、この時奉納された神馬が装着していたものだと言われています。

このほか、現在鹿島神宮で1月7日行われている白馬祭は、鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経が東国に下向した際、瑞相があり、鹿島神宮神前で禁中で行われていた白馬節絵会を同様に執り行ったことが起源であるとされています。(『大宮司中臣則勝等白馬之祭記』)

また、『吾妻鏡』や『鹿島長暦』などには、

  • 政子が頼家を出産するにあたり、頼朝が常陸大掾氏一族の小栗重成を奉幣使として鹿島神宮に参内させた。
  • 将軍頼経の病気平癒の祈祷のために使者を鹿島神宮送った。頼経は赤斑瘡を発し、数日で病気が全快した。
  • 蒙古襲来にあたり蒙古降伏の祈祷のために、将軍家から行方郡大賀村が寄進され、弘安6年4月大禰宜頼親が異国降伏祈祷の巻数を鎌倉へ進じ、これに対して北条氏より謝文があった。

などの記載があり、鎌倉幕府が重要な場面で鹿島神宮に使者を送り祈祷等を行っていたことが記されています。
中世という武家社会の中で、鹿島神宮は武神として武家勢力の崇敬を集めていたことが窺えます。

(参考文献:『図説鹿嶋の歴史 中世近世編』『鹿島町史第1巻』)

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